昨夜のYBは念願の4連勝を逃した。終盤まで好投した那須野の努力を一瞬にしてフイにした佐久本&山北のトレードイン背信組、絶対に許すマジ!
ということで嵐のような天候に合わせて(嘘)これを聴いた。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1785418
(国内盤はこちら↓)
ブーレーズ/バレンボイム盤、ポリーニ/アバド盤というのもあったがイマイチ、だが、ブーレーズ翁のこれは凄いのだ。何だかこの歳で生き急いでいるのか? 3オケ3ソリストで一気出し~! という感じでやりたい放題。
1番はツィマーマン/CSO、2番はアンスネス(=EMIクラシックスからレンタル)/BPO、3番グリモー/LSOと豪華三本建ての全集である。バルトークは聴き辛いという人は多いがこの全集は割と分かりやすい解釈ではないだろうか。
唯一ウィキペディアに乗っていた3番の解説をちょこっと拝借する。
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ピアノ協奏曲第3番(Sz. 119)は、1945年に、作曲者の亡命先であるアメリカ合衆国で作曲された。全体的に安定した調性感が特徴的で、無調性や複調性はめったに現われない。渡米後のバルトーク作品の中で伝統回帰の性格がもっとも顕著であるために、かつてのブーレーズなどは「退嬰的である」として、録音・演奏しようとしなかった。しかしながら、亡命前のピアノ協奏曲と違って、本作は自分が弾くことを前提としていなかったこと、作曲にあたって、ロマン派音楽を好んだ当時の米国楽壇の趣味を計算していたこと、職人的な作曲技法に衰えが見られないことなどから、現在では本作品への評価が好転している。
1945年の春から作曲を始めた。作曲当時のバルトークは白血病の末期段階を迎えていたが、本人がそこまで自覚していたかどうかは判っていない。いずれにしても、この作品はすぐれたピアニストであるディッタ夫人(ディッタ・パーストリ=バルトーク)の誕生日に合わせ、彼女へのプレゼントと彼女のレパートリーとするために着手されたものと考えられている。
完成まであとわずかというところに来て、同年9月26日にバルトークは世を去った。このため、ハンガリー人作曲家ティボール・シェルイが、終楽章の未完成部分(17小節相当)を補筆した。シェルイによれば、バルトークの略記号指示があったため、ビオラ協奏曲に比べればはるかに容易な作業だったと言うことである。
ディッタ夫人はこの曲を1960年代になるまで弾かなかった。初演は1946年2月8日に、バルトークの弟子であるジェルジ・シャーンドルの独奏と、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の共演によって行われた。
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そうか・・、三番は奥さんへのプレゼントだったのか。何とカッコいい贈り物か、しかも遺作になってしまったとは・・。それでこのアルバムでもグリモーに弾かせているとはうがち過ぎかな? いや時代考証マニアであるブーレーズの事だから抜かりはなかっただろう。
一番のツィマーマンが弾くピアノは随所で言われている通りまさにパーカッションだが、メロディアスな打楽器奏者、という感じでかなりイケている。二番のアンスネスはEMIの看板豪腕ピアニストという印象を払拭する繊細なタッチが魅力。何と言っても三番の宗教がかった二楽章を弾くエレーヌ・グリモーが素晴らしい。瞑想的であってしかし現実を見据えていて、彼女のF.Chopin葬送に通ずる「死にまつわる」求道的な演奏であるし、ブーレーズのタクトが氷のように冷たく冴え渡っているのは言うまでもない。
(録音評)
演奏の方は三者三様で非常に聴かせられる出来であるが、録音の方もシカゴ、ベルリン、ロンドンと一粒で三度美味しいのである。透徹されたシカゴ・シンフォニーセンターのオーケストラホール、リリカルで硬く高貴なベルリンのフィルハーモニック・グロッサーザール、フローラルなロンドン・ジャーウッドホールと、それぞれホールトーンが特徴的に描き分けられている。器楽配列をそらんじるほどは聴き込んでいないので何とも言えないがどれも定位・音場ともに素晴らしい。またピアノの位置と大きさは概ね三作品とも同程度なのだが残響が異なるため印象は全く違うものになっている。一番細くて透き通っているのはグリモー/LSO、剛直な印象なのはツィマーマン/CSOだ。ベルリンはちょっと隈取りが弱く膨張している感じ・・。
普通の装置でこれら三つのホールトーンが同じに聞こえる可能性は高いと感じた。ブーレーズは敢えて同じになるように指示した可能性があるが、eAR+CS7.2は意地悪にも差異を拡大して再生してしまう。これ三つが完璧に描き分けられればあなたのオーディオ装置は「上がり」である。