2006年 12月 01日
SL聴き比べ:Schubert Impromptu D899-4 |
今日はこれ。


シューベルト: 即興曲 変イ長調 D899-4
ピアノ: ホロヴィッツ、内田光子
即興曲(Impromptu)はショパンやリストが有名だが、シューベルトも即興曲集を二つ書いている。今回取り上げたD899 Op.90と、この続編と見られているD935 Op.142である。いずれも4曲から構成されていて没する前年に書き上げたとされている。シューベルトの楽曲ををこよなく愛したアルベルト・アインシュタインが、シューベルトがピアノで語った人生最期の言葉、と比喩した優れた作品である。
D899-4は、短調で下降する速い回音(ターン)が哀しげで儚い心象を描く第一主題が印象的だ。まるで枯れ葉が一枚二枚とヒラヒラ落下していく様子を描いたような映像が脳裏に拡がっていく。
すぐに現れる展開部は、今度は長調で上昇する回音が一瞬の安らぎと柔らかな日差しを感じさせるが、すぐにまた寒々とした短調の回音へと誘われていく。
長調と短調、上昇と下降、強打と弱打という隙間に、死期の迫ったシューベルトのデモーニッシュな心の襞が描き込まれているといってよい。光と影、冷と温、静と動、そして生と死・・・、これらを対比しつつ揺れながら激情のフィナーレへと向かう。この苛烈にして劇的な曲でシューベルトは何が言いたかったのだろうか?
譜読みも弾き込みもそれ程困難ではない割と平易な曲ではあろうが、この様な複雑で鬱屈したエモーションを内包した楽譜をどの様に解釈して表出するのかが鍵である。
ホロヴィッツは例によって極端な解釈に終始しつつも、実に丁寧に回音を辿っていく。時には鍵盤を舐めるように、聴き取れるか聴き取れないか、すれすれの微細タッチにより儚さをより強く演出している。そして強打はより強く激しく強調するデュナーミク、速いパッセージはより速く、遅い曲がり角は更に過度にゆっくりといったアゴーギクが多用されている。
内田光子は端正で起伏の少ない刻み方に終始する。下降回音は極限までの滑らかさを実現していて、これは超一流のレガートだ。ホロヴィッツは極端なデュナーミクによって回音部の旋律の明快さを犠牲にしたのだが、対する内田は弱音ながら克明に音階を隈取っている。強奏部は強い決意が表れているものの決して破裂することなく高い緊張を維持し、弱奏部でもその緊張感が持続している。
まあ、無理に結論を出すことはないのだが、ホロヴィッツはやはりホロヴィッツであり、独特でエキセントリックな解釈なのであったし、内田光子は理性的で細やか、そしてどちらかといえば内省的な解釈なのであった。
ホロヴィッツと内田が生きた年代が違う(内田は存命だが)と言うべきかもしれない。ピアノのブリリアンスを余すところ無く引き出すホロヴィッツに対し、内に秘めた熱情を引き気味の冷静なタッチで紡いでいく内田・・・、やはりデジタル世代のピアノの弾き方はこれがスタンダードなのかも知れない。
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シューベルト: 即興曲 変イ長調 D899-4
ピアノ: ホロヴィッツ、内田光子
即興曲(Impromptu)はショパンやリストが有名だが、シューベルトも即興曲集を二つ書いている。今回取り上げたD899 Op.90と、この続編と見られているD935 Op.142である。いずれも4曲から構成されていて没する前年に書き上げたとされている。シューベルトの楽曲ををこよなく愛したアルベルト・アインシュタインが、シューベルトがピアノで語った人生最期の言葉、と比喩した優れた作品である。
D899-4は、短調で下降する速い回音(ターン)が哀しげで儚い心象を描く第一主題が印象的だ。まるで枯れ葉が一枚二枚とヒラヒラ落下していく様子を描いたような映像が脳裏に拡がっていく。
すぐに現れる展開部は、今度は長調で上昇する回音が一瞬の安らぎと柔らかな日差しを感じさせるが、すぐにまた寒々とした短調の回音へと誘われていく。
長調と短調、上昇と下降、強打と弱打という隙間に、死期の迫ったシューベルトのデモーニッシュな心の襞が描き込まれているといってよい。光と影、冷と温、静と動、そして生と死・・・、これらを対比しつつ揺れながら激情のフィナーレへと向かう。この苛烈にして劇的な曲でシューベルトは何が言いたかったのだろうか?
譜読みも弾き込みもそれ程困難ではない割と平易な曲ではあろうが、この様な複雑で鬱屈したエモーションを内包した楽譜をどの様に解釈して表出するのかが鍵である。
ホロヴィッツは例によって極端な解釈に終始しつつも、実に丁寧に回音を辿っていく。時には鍵盤を舐めるように、聴き取れるか聴き取れないか、すれすれの微細タッチにより儚さをより強く演出している。そして強打はより強く激しく強調するデュナーミク、速いパッセージはより速く、遅い曲がり角は更に過度にゆっくりといったアゴーギクが多用されている。
内田光子は端正で起伏の少ない刻み方に終始する。下降回音は極限までの滑らかさを実現していて、これは超一流のレガートだ。ホロヴィッツは極端なデュナーミクによって回音部の旋律の明快さを犠牲にしたのだが、対する内田は弱音ながら克明に音階を隈取っている。強奏部は強い決意が表れているものの決して破裂することなく高い緊張を維持し、弱奏部でもその緊張感が持続している。
まあ、無理に結論を出すことはないのだが、ホロヴィッツはやはりホロヴィッツであり、独特でエキセントリックな解釈なのであったし、内田光子は理性的で細やか、そしてどちらかといえば内省的な解釈なのであった。
ホロヴィッツと内田が生きた年代が違う(内田は存命だが)と言うべきかもしれない。ピアノのブリリアンスを余すところ無く引き出すホロヴィッツに対し、内に秘めた熱情を引き気味の冷静なタッチで紡いでいく内田・・・、やはりデジタル世代のピアノの弾き方はこれがスタンダードなのかも知れない。
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by primex64
| 2006-12-01 11:28
| Compilation
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