J.S.Bach: Partita@Claudio Arrau |
J.S.Bach:
Partita No. 1 in B flat, BWV 825
Partita No. 2 in C minor, BWV 826
Partita No. 3 in A minor, BWV 827
Partita No. 5 in G, BWV 829
Claudio Arrau(Pf)
Format: Compact Disc
Record Label: Philips
Catalog Number: 434 904-2
Year Released/Recorded: 1991
これは、クラウディオ・アラウという20世紀の巨匠ピアニストの一人に数えられる人の最後の録音、バッハのパルティータ集である。この録音を終えた2ヶ月後、アラウはこのアルバムのリリースを見届けることなく88歳の生涯を閉じてしまう。
アラウはベートーベンのPコンや独奏曲、ショパン、リスト、モーツァルト等を得意としてきたピアニストなのだが、不思議とバッハの録音は少ない。アラウが若くしてデビューした曲はバッハだったらしいのだが、生涯のバッハ録音はめぼしいものがない。
アラウ自身、バッハなどピアノが存在しない時代に作られた曲をピアノで演奏することをためらったという経緯がある。この録音の前、彼は婦人と子供を亡くし悲嘆の淵に立たされ、孤独に追いやられた悩みに苛まれ、それでも持ち前のバイタリティで哀しみを払拭して活動を再開した。再開に際し選んだ曲は、数十年も思い悩んで封印してきたバッハだったのだ。どんな心境が彼をバッハに駆り立てたのか。
バッハなどがバロック期に作曲した鍵盤曲はチェンバロを想定して書かれ、器楽曲はヴィオラダガンバやダモーレ、バロック・ヴァイオリンなどを想定している。チェンバロはピックを弦に対して定速で打ち落とす楽器、またヴィオラダガンバ始めこれらのヴィオール属はフレットのある弦楽器である。即ちチェンバロは抑揚が付けられず、ヴィオール属はヴィヴラートを始めとした微妙な連続音階が表現できない。
一方、現代のピアノ(=ピアノフォルテ)と言う楽器はその名の如く弱い音から強い音まで自在に表現が可能であり、現代オーケストラのバンド幅はバロック期の器楽構成とは比較にならないほどの広さを持っている。
アラウはこのピアノの名手でありその楽器の特徴を隅から隅まで知っていた上でバッハの演奏を忌避してきたのだが、その背景にはチェンバロ曲をピアノで弾いた場合にオリジナル主義とはかけ離れた抑揚が期せずして付いてしまうと考えたようだ。
この盤のアラウは、技巧的な面では数々のテクニックを駆使してバロック期作品を敢えてピアノで演奏しているのだがその詳細は述べない。つまり、ひと言だけ言っておくと、強弱が付けられない楽譜の呪縛を取り除き、作曲当初にバッハが想定したであろう強弱をごく自然に付けている、ということだ。
気持ちのこもった演奏、渾身の名演、心の叫びが聞こえる演奏、等と絶賛する形容はよく耳にする。が、このCDはその様な形容をすること自体が躊躇われる実に優れた解釈であると同時に「心の映写機」とでも表現すべき明確な心象表出が見られる不世出のパルティータなのだ。バッハのパルティータという楽譜を演奏するのではなく、パルティータという透き通ったレンズを通して自分の心境をピアノの音に投影しているのである。
アラウのこれはバッハ作品の表現としては希有のものである。世の中の殆ど全ての演奏家がオリジナル主義へと回帰しているなか、ピアニスト・アラウが奏でるパルティータはアラウ自身の音楽であり、もはやバッハという原典を超越してしまっている。アラウがパルティータの楽譜を通じて人の死という無常の境地に関して雄弁に語っているのだ。
(録音評)
フィリップスのディジタル・クラシック・シリーズ。モデレートな録音である。寂しげで物憂げ、しかし芯のはっきりしたピアノである。一貫して渋い音だが、決して悪い録音ではない。
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この演奏は一般にはあまり評価されていませんね。ロマン主義的過ぎて、ピアノで弾くバッハとして新しい解釈の演奏とは思われていないからじゃないかと思います。
でも、20年以上前からアラウのピアノが好きな私としては、この上なく貴重な演奏なので、居住まいを正してからじゃないと、とても聴けません。
アラウのバッハの録音は、数十年前(1950年代?)のゴルトベルク変奏曲が最後だったはずですが、ピアニストがキャリアの最後でバッハへ戻るというのは多い気がします。R.ゼルキンは臨終の間際のベッドの中で、指だけでゴルトベルクを弾いていたそうです。
>パルティータという透き通ったレンズを通して自分の心境をピアノの音に投影しているのである。
これは全くその通りですね。この演奏を聴いていると、アラウが自分の心を歌っているように聴こえてきます。
古い記事へのコメント、大歓迎です。はい! 世の中的には不人気ですが・・。アラウの墓碑銘とも言えるこのアルバムは私にとっては宝物です。そしてバロック期のクラヴィーア曲をモダン・ピアノで弾く場合の一つの規範として位置付けてきた演奏でもあります(勿論、この演奏と直接的に比較して善し悪しの評価をしているわけではありませんが・・)。
多くのピアニストがその晩年、バッハへと回帰して行く心情は何となく分かります。このパルティータにもその辺の心象が強く表れていますね。
一聴した際には「やはり80代のお爺さんの…」てな感じでしたが、聴き進むにつれてprimex64 さんのお書きの意味が分かってきました。唯一、失敗と思うのは、ファイナル・エデイションの7枚組を一気に買うべきだったかな、と反省w
今後とも、素晴らしいCDの啓蒙をお願いします。
ではでは。
アラウのこれは、個人的には強烈なシンパシーがずっとあるためか、ちょっと美化しすぎの評になっているきらいはあります。しかし、いま聴いてもやっぱりいいです。極めて私的な領分を淡々と語っているとしか思えない、やはり不世出のパルティータです。本当は6番を先に録ってほしかったですが、無い物ねだり、心の中でアラウの6番を仮想再生させてみている昨今でした・・。