読売日響マチネー@芸劇 |
昨日は雨で外出予定は無くなってしまい昼間はインド風スープカリーをサクッと作って食べてた。
ということで先ずはマチネーの感想から。
今回の指揮者は金聖響という人(大阪生まれ)。経歴はなかなかに華やか。オーケストラアンサンブル金沢などの客演で割と有名。彼自身のブログはこちら。
この人は特定客層から絶大な人気を誇るそうで、土曜マチネーという不利な時間帯にも拘わらず会場は満席だった。具体的には中高年女性に人気があるという。あの年代から見れば色男? 会場は普段よりも香水の臭いがきつい気がした。
プログラムは、モーツァルトPコン26番戴冠式、Rシュトラウス英雄の生涯の二本立て。
Pコンの方のソリストは新進気鋭の女流コルネリア・ヘルマン。CDデビューも果たしているという事前知識はあったものの初めて接する演奏だった。 彼女のサイトはこちら。
日本人の血を引いているというその風貌は、なかなか・・・。まぁヒラリー・ハーン程の強烈な個性も人気も現時点ではないのだが、演奏は非凡なものがある。
思えば過去の自分自身のピアノに対する姿勢はもとより、かつてからのピアノ系鑑賞履歴、また蒐集しているピアノ絡みのCDなど、愛聴してきたピアノ演奏はどれも剛直で硬質なパワーを伴う完璧な技巧を我がものとしたヴィルトゥオーシティばかりを追求してきていた気がする。
モーツァルトのPコンはどれもが中小規模形式の、簡潔で平易な曲想のものが殆どだが、この26番と最後のPコン27番に関しては割とドラマティックで感情の表出が多めの躍動感溢れる佳作だと思う。この曲も良く演奏会で取り上げられるがモーツァルトの中では割と技巧的な要求水準は高いと思われる(ポケットスコアもパート譜も読んだことはないが・・)。剛直とまでは行かないが割とパワーでねじ伏せたまま一気に最後まで駆け抜ける演奏が多いのではないだろうか?
コルネリアのピアノはそうではなかった。技巧的には完璧な水準に達していることは間違いはないが、その片鱗は微塵も感じさせぬ優しくふくよかで耳障りの良いカデンツァには考えさせられるものがあった。これもありか? と聴きながら何度も頷いた。オケとの馴染みが秀逸で、協奏パートではとかくピアノだけが隈取り鮮やかに浮き出る演奏が多い中、オケに溶け込む、というか多少音量を抑制しつつ対話を重ねていく穏やかなチームワークは素晴らしかった。
モーツァルトは個人的には苦手な作曲家ではあるが、この様な、刺激臭を極力抑えた、そしてまろび出て歌うようなゆとりあるPコンならば歓迎だ。これがザルツブルク生まれ、モーツァルテウム音楽院卒という生粋のモーツァルト弾きの真髄なのか? 新しい発見があって結構満足した。
休憩を挟んで英雄の生涯だ。ピアノが取り払われて指揮者がよく見える。今回は一階席前列から8列目と言うことで指揮台がよく見える位置だったのだが前半はピアノの蓋で隠れてよく見えなかった。金聖響の指揮は結構派手だ。タクトの振り下ろしはストレートで振り上げがゆっくりというのが普通のパターンとすれば、彼は逆の癖があり振り上げが急峻である。佐々木小次郎のツバメ返しといったところか? いや、松平健の暴れん坊将軍と言った方が分かりやすいかな? それで中高年婦人から人気がある・・・、という訳じゃないだろうけど(^^ゞ
この曲はRシュトラウスの作品の中でもとりわけ壮麗で大規模なものだが、最後まで緊張感を持続しつつそのパノラマ的音絵図を心底楽しめる演奏はなかなかないのが実情だろう。
加速感が心地良い英雄の生涯だった。この作品は随所に仕掛けが仕込まれている最大構成のオーケストラ曲だがコンマスの甘美なVnソロ、木管隊がピーチクとさえずり合うダイアログ、Tp三本が控え室から吹き出すバンダホルンのファンファーレ、それに続いて大砲を描いたものとされるグランカッサの咆哮、Tbやチューバのストレートビームと聴衆を飽きさせることのない絵巻物が眼前に展開する。
ウチにあるCDで言えばBPO/ラトルの完璧な技巧には及ばないものの、前述の独特の加速感が素晴らしく、次から次へと繰り出される特異な旋律と協/不協和音を上手に繋ぎ止めながら織り込んでいくという金聖響のリードは巧みだった。この加速感は何なんだ? 恐らく後拍型のツバメ返しが何らかの効果に寄与しているのだろう。マラ1以来久しぶりに芸劇で味わう、ステージから奏者がこぼれ落ちそうな位の読売日響最大構成のド迫力全開といったところ。このダイナミックレンジを家庭用音響機器で再現することは不可能だ。
軽い脱力感を伴う大きな満足を得てロング・エスカレータに乗り、夕刻にかかる池袋の町へと出ていった。