ある風景:Kannai~Isezakicho, Yokohama@Summer #2 |
羽衣町交差点を渡る前に北東方向を望んだ絵
関内駅から鎌倉街道を南西方向へ進み、新横浜通りの長い横断歩道を渡ったところ。北東方向を望んだのがこの絵で、中央にレンガ色の中層マンションが建っているが、ここはかつて馬車道マルイだった。あの頃の馬車道は今よりも活気、というか熱気があった。

太陽生命ビルの前から関内駅のガードを望む
前回に掲載した太陽生命関内ビルの正面玄関、すなわちファミマの目の前から東方面を撮影した図がこちら。なお、先週だが、このファミマ店舗が若者二人から強盗被害に遭ったとのニュースが流れていた。こんなにも人通りの多い場所で油断も隙もないのだ。

イセザキモールの裏通り
太陽生命のビルから少し歩くとイセザキモールの北東側入り口となるが、この狭い路地はそれより一本手前、つまり南側の通りとなる。今回は掲載していないが、味のある特徴的な店が点在する知る人ぞ知る裏通りなのだ。

クラシック版:今日は何の日?
6月26日はクラウディオ・アバド生誕の日。

1959年に指揮者デビューを果たした後、カラヤンに注目されてザルツブルク音楽祭にデビューする。ベルリン・フィルやウィーン・フィル、シカゴ、ドレスデンなどの桧舞台に早くから客演を重ね、確実にキャリアを積み重ねていく。1968年にミラノ・スカラ座の指揮者となり、1972年には音楽監督、1977年には芸術監督に就任する。イタリア・オペラに限らず広大なレパートリーを高い質で提供しつつ、レコーディングにも取り組んだ。
スカラ・フィルハーモニー管弦楽団を設立してオーケストラのレベルを格段に上げたことは特筆される。ウィーン転出を機に1986年に辞任する。なお、アバドはイタリア・オペラでもプッチーニやヴェリズモ・オペラは取り上げないなど、独自のこだわりを持っている。一方では、1960年代までは「セビリアの理髪師」以外は上演機会が少なく存在感の薄い存在だったロッシーニを積極的に再評価し、いわゆるロッシーニ・ルネッサンスの立役者の一人となった。(後略)
(Wikiより)(再掲)

