2021年 06月 28日
ある風景:China Town, Yokohama@Early Summer #1 |
中華街の景色から。思い返せば、コロナ禍の初期、元々の感染が武漢から始まったことからか中華街は謂れなき風評被害に遭い、酷い状況に追いやられた。
誤解があるようだが、その昔、横浜中華街を形作ったのは主に台湾出身、もしくは少数だが香港出身の帰化人たちで、現在でもその末裔ないし関係者が経営している店が殆ど。大陸出身者が経営する店が増えてきたのはここ10~15年ほどで、その数は今でもそれほど多くはない。
話はこの風景に戻る。中華街の北東の入口は朝暘門といい、山下公園に繋がるメジャーなランドマークだ。そこより一本東側の通りである蘇州小路は狭隘で地味なせいか人通りも多くはない。しかし昔からの名店が多く、味のある通りなのだ。




蘇州小路を進むとT字路に出る。ここに聳えるのが横浜大世界という大規模な中華系テーマパークを含む雑居ビル。左に折れるとすぐに関帝廟通りの入り口となる。




6月28日はヨーゼフ・ヨアヒム生誕の日。
ヨーゼフ・ヨアヒム(ドイツ語: Joseph Joachim)、ヨアヒム・ヨージェフ(ハンガリー語: Joachim József, 1831年6月28日 - 1907年8月15日)は、ヴァイオリニスト・指揮者・作曲家。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲の初演ヴァイオリニストとして後世に名を残している。1831年6月28日、ポジョニやアイゼンシュタットにほど近いハンガリー王国領西部のキットゼー(マジャル語名ケプチェーニ)で生まれた。キットゼーはバッチャーニ=シュトラットマン家(Batthyány-Strattmann)の館のある地として知られ、現在はオーストリアのブルゲンラント州に属している。
1833年、ヨアヒムの一家はブダペストに移った。ヨーゼフは5歳になるとブダペストでヴァイオリンのレッスンを受け、続いてウィーンに渡りウィーン音楽院で修行した。1843年、12歳になるとライプツィヒに出向き、メンデルスゾーンに師事した。なお、ライプツィヒ音楽院の入学試験でヨアヒムが演奏した際の試験官は、学院長のメンデルスゾーンであった。同年8月、ゲヴァントハウスで、メンデルスゾーン、クララ・シューマンらと共演し、12歳のヨアヒムはライプツィヒの聴衆の知るところとなった。3年後、ヨアヒム15歳の時、メンデルスゾーンに伴われて初めてロンドンで演奏し、成功を収めたが、翌1847年11月4日にメンデルスゾーンは亡くなった。
1848年、17歳になったヨアヒムは、2年間ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に在籍した。その間、オーケストラのみならず、ゲヴァントハウス弦楽四重奏団で第2ヴァイオリンも担当した。(後略)
(Wikiより)
※ヨアヒムの純粋な独立作品は現在ではほとんど演奏されない。しかしながら、彼は名立たる作家のVnコン(ヴァイオリン協奏曲)のカデンツァを作っては自らの演奏に使用し、そのスケッチが後世の名ソリストたちの演奏にも頻繁に使われてからポピュラーになって現代にその名を残す。いわゆるヨアヒム版のカデンツァである。他にはブラームスのハンガリー舞曲のヨアヒム編曲版も有名だ。

横浜天主堂跡の交差点~蘇州小路
誤解があるようだが、その昔、横浜中華街を形作ったのは主に台湾出身、もしくは少数だが香港出身の帰化人たちで、現在でもその末裔ないし関係者が経営している店が殆ど。大陸出身者が経営する店が増えてきたのはここ10~15年ほどで、その数は今でもそれほど多くはない。
話はこの風景に戻る。中華街の北東の入口は朝暘門といい、山下公園に繋がるメジャーなランドマークだ。そこより一本東側の通りである蘇州小路は狭隘で地味なせいか人通りも多くはない。しかし昔からの名店が多く、味のある通りなのだ。




横浜大世界~関帝廟通り入口
蘇州小路を進むとT字路に出る。ここに聳えるのが横浜大世界という大規模な中華系テーマパークを含む雑居ビル。左に折れるとすぐに関帝廟通りの入り口となる。




今日の一曲 ※お休み
6月28日はヨーゼフ・ヨアヒム生誕の日。
ヨーゼフ・ヨアヒム(ドイツ語: Joseph Joachim)、ヨアヒム・ヨージェフ(ハンガリー語: Joachim József, 1831年6月28日 - 1907年8月15日)は、ヴァイオリニスト・指揮者・作曲家。ブラームスのヴァイオリン協奏曲の初演ヴァイオリニストとして後世に名を残している。1831年6月28日、ポジョニやアイゼンシュタットにほど近いハンガリー王国領西部のキットゼー(マジャル語名ケプチェーニ)で生まれた。キットゼーはバッチャーニ=シュトラットマン家(Batthyány-Strattmann)の館のある地として知られ、現在はオーストリアのブルゲンラント州に属している。
1833年、ヨアヒムの一家はブダペストに移った。ヨーゼフは5歳になるとブダペストでヴァイオリンのレッスンを受け、続いてウィーンに渡りウィーン音楽院で修行した。1843年、12歳になるとライプツィヒに出向き、メンデルスゾーンに師事した。なお、ライプツィヒ音楽院の入学試験でヨアヒムが演奏した際の試験官は、学院長のメンデルスゾーンであった。同年8月、ゲヴァントハウスで、メンデルスゾーン、クララ・シューマンらと共演し、12歳のヨアヒムはライプツィヒの聴衆の知るところとなった。3年後、ヨアヒム15歳の時、メンデルスゾーンに伴われて初めてロンドンで演奏し、成功を収めたが、翌1847年11月4日にメンデルスゾーンは亡くなった。
1848年、17歳になったヨアヒムは、2年間ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に在籍した。その間、オーケストラのみならず、ゲヴァントハウス弦楽四重奏団で第2ヴァイオリンも担当した。(後略)
(Wikiより)
※ヨアヒムの純粋な独立作品は現在ではほとんど演奏されない。しかしながら、彼は名立たる作家のVnコン(ヴァイオリン協奏曲)のカデンツァを作っては自らの演奏に使用し、そのスケッチが後世の名ソリストたちの演奏にも頻繁に使われてからポピュラーになって現代にその名を残す。いわゆるヨアヒム版のカデンツァである。他にはブラームスのハンガリー舞曲のヨアヒム編曲版も有名だ。
by primex64
| 2021-06-28 22:49
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