ある風景:Kannai & Isezakicho, Yokohama@Summer #1 |
横浜の規模感について
横浜は人口370万人を数える大都市だが、その大部分が昭和中期までに周辺自治体から併合された内陸部を含んでの数値だ。繁華街は数えるほどしかなく、それぞれはコンパクト、そのエリアを面積規模で東京23区と比較するなら100分の1ほどであろうか。MusicArenaの食べ歩きの合間に出て来る町並みも実に小ぢんまりしていることに気が付くと思う。
繁華街のそれぞれの文化圏の違いについて
ここMusicArenaでは関内と伊勢佐木町は別の街として明確に区別しているが、実は両者は隣接していて分ける必要もないほど近くて一体化している。だが、隣りあいつつも文化がまるで違い、実は目に見えない分界点が存在するのだ。なのでここでは敢えて関内と伊勢佐木町とでは分けている(タイトルの@の右側のロケーションの表記)のだ。東京でいえば有楽町、数寄屋橋、銀座をそれぞれ区分しているし、新宿と歌舞伎町を敢えて分けている事情と類似かもしれない。
※撮影地:横浜市中区
今日の一曲
引き続き、ジャン・マルティノン/フランス国立放送管弦楽団、ドビュッシー:小組曲から。2楽章のタイトルは行列で、Fl、次いでClが活躍するポップな入りはかなりフランス的、どちらかというと奇想曲的な味わいのある楽しい曲。中間部は複雑な移調と変奏を繰り返す三部形式。これもまたピアノ連弾の原曲に比べるとオケ版はふんわりと優しく、それでいてブリリアンスに満ちて綺麗で壮麗な編曲。ピアノ連弾版が初期のスケッチでオケ版が最終形なのかとの幻想を抱いてしまう。
(MusicArena 2007/1/11)
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♪ よい音楽を聴きましょう ♫
私、東京五輪(2020年ではない方w)近辺の時期、当時に長者町といった地区の団地に住んでまして、幼稚園でしたか。
当時は国鉄は桜木町までしかなくて、足は専ら市電でした。長者町3丁目という電停から幼稚園のある野毛山まで通ってました。伊勢佐木町の手前ですごく汚い川を渡ってましたね。運賃13円だったかな?
子供心には、市電の通りとその周辺が街としてのメインストリート、城南信金の大きなお店のそばから野毛山の坂を登ってゆくあたりが一番栄えていたような。もっとも、そんな場所に一人で行くはずもなく、ちょっと外れた黄金町とか馬車道といった大人向け地区はあったのかも含めて全く存じませんでしたw 有隣堂、戸隠、不二家、野澤屋(後の野澤松坂屋ですね)、双葉家具何ぞが私を連れた場合の親父の行きつけでした。
確かに、お書きの通り、関内は伊勢佐木町と殆ど同一体と言えますが、市電由来の繁華街と国鉄由来の繁華街で成り立ちは異なるということでしょうね。まあ、敢えて区切らなくてもってくらい近いのも事実か?(爆)ではでは。
私は1987年に横浜に引っ越してきたので、既に市街地は整備が終わっていて今の姿でした。
仰る、汚い川というのは吉田川のことだと思います。その後、埋め立てられて跡地は大通り公園になり、その下には市営地下鉄が走っています。双葉家具は、私らが横浜に越して家を新築した時にダイニングセット、ソファーなど一式を買い揃えたときにお世話になりましたが、数年前に廃業し、今はカラオケや飲み屋が入るテナント貸しビルになっています。松坂屋は「ゆず」の聖地でしたが、今は建て替わって、カトレアプラザという総合商業ビルになっています。確かに、城南信金はまだあって、その長者町交差点からオデオン前を通り日ノ出町までは広い街道が残っていますが、今は目抜き通りという感じじゃないですね。。有隣堂、戸隠、不二家は健在ですね。
吉田橋という、この写真でいうと3枚目の首都高の掘割を境に海側を関内、山側を関外と呼び、その昔の関内は外国人居留地だったんですね・・。因みに首都高速は派大岡川という運河で、その海側は南から外人墓地、元町商店街、中華街、関内、馬車道と、いずれも外国人特区的な場所だったと伺っています。。
今度、いつか実際にお会いして、その当時のお話をお伺いしたいです。