喜八@富山 |
週明けに再び富山を往復
北陸新幹線が開業し東京駅から2時間ちょっとで富山に行けるにせよ、早朝出発で8:30に件の病院に辿りつくことは物理的に不可能だ。仕方なく霞ヶ関の職場から横浜の自宅に戻って急いで支度してその日の晩に富山に入って寝て翌朝に行くことに。横浜へ向かう東横線の車中、えきねっと予約で往復の切符を確保する。自宅で支度して出発、横浜駅の長距離切符券売機で発券し上野・東京ライン運用の東海道線で東京駅へ向かった。
月曜夜のかがやき号(金沢行き)だったが客はそこそこ乗っていて私が取った10号車は半分くらいが埋まっているようだった。ここ暫く1~2週間に一度、富山・東京を往復するが、新幹線は需要が先にあって通すのではなく、新幹線を通したからこそ需要が掘り起こされるのだと痛感するのだ。やはり新幹線鉄道建設というビジネスモデルはいまだに健在、絶大な効果を生むのだ。
所用を済ませた翌日の昼下がり、夕刻の新幹線で東京駅経由で横浜へ戻る前に是非とも立ち寄ってあることを確認したい店があった。それは、奥田ビル3号館に10年ほど前に開業した喜八というラーメン屋だ。
奥田ビルは昭和の高度経済成長期のさなか、戦前からこの地にあった薬専=官立富山薬学専門学校=後の富山大学薬学部=の広大な跡地を再開発した住宅街のモニュメント的な建造物で、一階が商店街、二階以上が市営住宅という、いわゆる「下駄履きアパート」だ。因みに、私は富山市立奥田小学校という学校に通っていて、竣工間もない奥田ビルを庭のような遊び場としていた。
大喜以外で食べる大喜直系のラーメン屋は如何に
奥田ビルの設計は古くて車での来店は想定されていない。従って郊外店舗に客がとられ現在はシャッター通りの様相を呈している。それでも工夫はしていて、ビルの裏側に共用駐車場を作ってあり、そこに車を停められた。裏口からアーケードに回ると、すぐに目的の店舗があった。先客は1名。口頭で女性スタッフにオーダーを伝える。頼んだのはミニ丼セット=牛丼+黒いラーメン。
最初にミニサイズの牛丼が出る。大規模チェーンの牛丼とは異なるが、牛肉と玉葱が乗った確かな牛丼だ。間髪入れずにラーメンがサーブ。見た目は大喜との違いはなく正統かつ本流のコスメティックス。まずはラーメンのスープを一掬い。これは良い。現在の大喜のスープは"仇塩辛い"※と感じるが、このスープは角が鋭くなくて味が深い。そう。一瞬、40年前の古い大喜の味が蘇る。
※仇塩辛い
その昔家族が良く使っていた古い言葉なので正確な定義は今となっては不明だが、塩味が鋭く食材や旨味成分と馴染んでおらず、舌先や喉の奥に塩分だけが不快に残留する違和感を指す。
古代・大喜の味の源流を受け継いでいる稀有なラーメン
喜八のラーメンを食べて素直に感じるのは、創業者がまだ健在だった頃の古代・西町大喜で、午後に客足が一段落した頃に出てくるラーメンスープは仇塩辛さが取れて、おそらくこんな優しい味だったなー、ということ。人間の味覚とは思った以上に微細かつ長期に渡り正確に記憶されるものであり、ここ喜八でこの懐かしい塩加減を思い出し少し嬉しくなった。
四十数年経ち、古代・大喜のスープは店の繁閑に応じて味が変動していたことを再確認でき、喜八訪問の目的は達した。混んでいてどんどん客をこなしているとき醤油が殊更に立って仇塩辛いのが現在の西町大喜の味、落ち着いて醤油の角が取れたのが喜八の味で、脳内イメージとしてはその中間くらいが古代・大喜の味だったように思う。但し塩分濃度はずっと高かったが。
なお、麺は小麦の香りがするし、チャーシュー、メンマともに現在の大喜のものよりはクォリティは明らかに上で、丁寧な仕事ぶりが光っていた。
大喜の創業者で長らく西町を切り盛りしていた高橋青幹氏は既に故人で、前述のとおり西町本店は暖簾ごと人手に渡り、現在は富山県内でカプリチョーザを展開する外食産業の傘下にある。高橋青幹氏の直系の弟子とされる人が興したラーメン店は富山市内に二店舗あり、そのうちの一つがここ喜八だ。因みにもう一店舗あるのだがこちらはまた別の機会に取り上げようと思う。
お店データ
お食事処 喜八
富山市奥田寿町6-3 奥田ビル3号館
電話:076-443-1888
営業:11:00~14:40(LO:14:30)、
17:30~20:50(LO:20:30)
定休:月曜
最寄:富山ライトレール奥田中学校前6分、
JR、あいの風とやま鉄道 富山15分
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