2016年 04月 20日
Me-Su-Bach: J.S.Bach: Partita#1,2,6@Edna Stern |
オーキッド・クラシクスの昨秋の新譜から、エドナ・スターンが弾くバッハ/パルティータ抜粋。

http://tower.jp/item/3996676/
Me-Su-Bach
J.S.Bach: Partitas Nos.1,2 & 6
Partita No.1 in B flat major, BWV825
I. Praeludium
Ii. Allemande
Iii. Corrente
Iv. Sarabande
V. Menuet I-ii
Vi. Gigue
Partita No.2 in C minor, BWV826
I. Sinfonia
Ii. Allemande
Iii. Courante
Iv. Sarabande
V. Rondeaux
Vi. Capriccio
Partita No.6 in E minor, BWV830
I. Toccata
Ii. Allemande
Iii. Corrente
Iv. Air
V. Sarabande
Vi. Tempo Di Gavotta
Vii. Gigue
Edna Stern (Pf)
J.S.バッハ:
パルティータ第1番変ロ長調 BWV.825
パルティータ第2番ハ短調 BWV.826
パルティータ第6番ホ短調 BWV.830
エドナ・スターン(ピアノ)
エドナ・スターンは、過去にはAparteレーベルからショパンのVcソナタをオフェリー・ガイヤールと共に録音しており、このアーティスティックなアルバムは2010年のMusicArena AwardsのPerformance of the yearに選定した。彼女が弾くプレイエルのフォルテピアノは実にキュートで端正、そして滑らかかつ高速運指が印象的だった。
今回のアルバムは過去にさんざん聴いて考えさせられ、ここMusicArenaでも功罪をずっと説いてきた現代ピアノによるバロック期のクラヴィーア作品の録音となる。ちょっと前のこの種の録音で印象に残っている演奏といえばヒューイットがファツィオリで弾いたフーガの技法があげられる。現代ピアノによるパルティータではアシュケナージの全集がスタティックかつ内省的な演奏で無我の境地を描き出していたし、アンドラーシュ・シフの全集もまた、瞑想的で求道的なミニマル志向の秀作だった。一方、ダイナミックでテンペラメンタルな解釈を基調としたペライアのパルティータは前者とは異なったアプローチながら、これはこれでありと納得する解釈だった。
(アラウの未完パルティータ集については敢えて述べない)
ライナーには楽曲解説とともに、Bach on the modern pianoと題するエドナ・スターン自身が書いた現代ピアノとバッハの関係性に関する見解、この風変わりなアルバム・タイトルの説明が載っている。ロンドンの王立音楽院の教職に就いている彼女ならではの明快な分析と信条が窺い知れ、演奏とともに非常に興味深く読んだ。私の拙い翻訳だが以下に記しておく。
---
現代ピアノによるバッハ
バッハの音楽をピアノで弾くとき、必然的にペダルの問題が起きる。今の時代にバッハを演奏するピアニストは大きく二分されるように思う。つまり一方はペダルを使い、他方は乾いた響きを優先するためにペダルを使わない。恐らく後者の人たちはチェンバロの音を模倣しようと試みているのだと思う。しかし、バッハは、とりもなおさずオルガンでも弾かれる。
私のアプローチだが、バッハの音楽は審美的なプロトタイプ(=原型、あるいは試作品の意)であって、その音楽たちは限界点を探して遥か彼方まで進化していくであろう、との信念に基づいている。
私は、これらのパルティータは特定のソノリティー(音価の響き)を強制するものではなく、様々な楽器(管、弦、また鍵盤楽器)から声楽的アプローチを引き出すために書かれたと信じている。演奏者はこれらの作品が示す音楽構造、それぞれの声部(対位法で言うところの各旋律ライン)の結び付き、そして各旋律間での印象的な構造を強調すべきと考える。
バッハを演奏するときのペダルの使い方は大変にセンシティブな課題だ。私の信念は、ピアニストはペダルを可能な限り慎重に使うべきだということ。それは、音の透過性、透明性、そして声部間のテンションを保つために重要だからだ。過剰なペダル使用はソノリティーを曖昧にし、それは音楽の精神に反すると私は思っている。
バッハの音楽のパワーは異なる要素間の相互作用から生じる:構造の厳格さと活力あるリズム(鼓動する心臓を人生の必然に比喩する)、忘れえぬ旋律と共に、それらの構築美によって聴く者の心を征服する。
バッハの音楽は、それゆえに声楽的にインスパイアされた解釈を要求すると信じている。歌手がその声帯を震わせるように、ピアニストはピアノの弦を震わせるべきであり、それは実践的にはペダルの使用を意味している。現代ピアノを使用するバッハ演奏において、ピアニストは弦を自由に歌わせることと拘束することとの間で、いかに適正なバランスを見い出すかに注意を払うべきである。
タイトル:Me-Su-Bachの意味
バッハは物静かなユーモアのセンスの持ち主で、それは彼の作品の中に潜んでいる。私は、このCDタイトルにおいてマルチリンガルで少し言葉の遊びを入れようと考えたが、これには、どこかにいるバッハもきっと喜んでくれるだろうと思う。
Me - この演奏の解釈における重要なパーソナリティ(個性)、また主観的な要素を示す。
Su - イタリア語の前置詞であるsuは、一般的に近接または近似を示す。
英語ではこれを、on、upon、onto、on top、over、about、aboveなどと翻訳し、文脈により使い分ける。
Bach - 主題を示す。
また、ヘブライ語で、Mesubach は「複雑な・・」を意味する。これは、バッハの音楽そのものの説明として確かに符合している。
---
上記のライナーの記述に関しては、このCDを何度か聴いた後に気が付いて読んだ。そして、なるほど、そういった主義信条で弾いていたのかと納得させられた箇所が多かった。
演奏スタイルとしては冒頭にあげたアシュケナージ、シフとは全く異なるもので、どちらかというとペライアの解釈と方向性は似ているかもしれない。しかし、スターンのこの解釈と演奏は圧倒的にテンペラメンタルで、しかも積極的で彫りの深いデュナーミクの連続に呆気にとられる演奏であり、ここまでダイナミックなバッハ現代ピアノ演奏は殆ど聴いたことがなく、極めて強い衝撃だ。ありきたりの例外を強いて挙げるとすればグールドだろうが、スターンのこの演奏はまさに正統派。グールドみたいによたよたしてはいない。つまり彼女はアゴーギクを殆ど使っていないのだ。
そして、その衝撃もやまぬうちにライナーに書かれた彼女の「論文」が極め付きのとどめを刺す。まさに、バッハの楽曲の多くはプロトタイプ、即ちテンプレートなのであって捉え方は演奏者側の自由な発想と感性に委ねられていると気付くのである。数百年の時の流れを経て、こんなパルティータがあり得るのであろうか? そこには多声のカノンやフーガ、あるいはリチェルカーレが存在するが、そんな形式論を超越した肉声の歌があるのだ。
ライナーで彼女はペダルの重要性を説いているが、この録音を聴くとペダルが肉声におけるヴィブラートの役割を担えることを確かに感じとることができる。それは、特にパルティータ2番BWV826で大いなる発露があって、サスティンをどう使って歌声にするのかが明確に提示される。
1楽章シンフォニアや2楽章アルマンドは緩徐なのでそれほど感じられないかもしれないが、5楽章ロンドに至ると、内声部と主旋律の出し入れが非常に細かく制御され、かつ左右手でデュナーミクの強点が異なるピークを形成するという新機軸を見せ、このパルティータにはこんな音型があったのかと膝を打ってしまうのだ。これは驚き以外の何物でもない。彼女の記述にある「演奏者はこれらの作品が示す音楽構造、それぞれの声部の結び付き、そして各旋律間での印象的な構造を強調すべきと考える。」をそのまま実践しているのである。そして、よく聴くとぺダリングがとても頻繁で、ダンパーを降ろした時のデットな音とダンパーを上げて自由運動させる時の弦の音との対比を自在にコントロールすることで対位法上の重層的なトナリティーを巧妙にコントロールしているのだ。これは、要するに歌っているのであり、声楽的なアプローチとはこれを言っているのであろう。
やはり聴き応えするのはパルティータ6番BWV830である。快活にして闊達なだけでなく、鮮やかな強調により抉り出された予想外の内声部の提示、音価単位で精密にコントロールされるデュナーミクとサスティンペダルは、なんだか人知を超えた超絶技巧と言わざるを得ない。今まで聴いてきたパルティータ6番の中でも最もチャレンジングな解釈と演奏であり、中毒性が強くて何度も何度も聴きたくなる語り口。ヴィヴィッド、やんちゃ、明媚で直截的な情感表現、そして超絶技巧。個人的にはとっても好きだ。
1楽章トッカータはメロウで憂鬱な第1主題が有名だが、大概は情感豊かにアゴーギクを付けるところ、彼女はそれは使用せずドライにやり過ごす。展開部に入ると穏やかなテンポ取りでデュナーミクを駆使し静かに歌い始めるのだ。3楽章コレンテがこの演奏における精神のピークの一つと言えるような聴きどころ。作りとしては2声のフーガだが、どちらかというと左の活躍は少なくてモノフォニーに近い。右手の闊達さ加減は半端なく、とにかく凄いのひとこと。そして最終楽章ジーグは間違いなくこの曲の最高のピークであり、彼女の技巧、思想がぎゅっと凝縮されている「歌」そのものだ。左右手での主声部の頻繁な交代、そして音価のリリース(=音の消え際)まで計算された微細で精密なぺダリング、深い彫琢のデュナーミクの連続、青白い炎のようなテンペラメントは白眉中の白眉だ。
エドナ・スターンのバッハへのアプローチは明快でシンプルなシンタックスを基礎にしている。そして正攻法でありながら新鮮な驚きと感動を聴く者に与え、そして強い印象で残り続ける鋭敏なバッハ解釈・演奏だ。
(録音評)
Orchid Classics ORC100050、通常CD。録音はちょっと古くて2014年10月、フランスのコンピエーニュ帝国劇場とある。ピアノはおそらくスタインウェイのちょっと古いフルコンサート・グランド。音色は軽めで中高域に僅かだが混変調が認められる使い込まれた個体だ。このヴェニューは音響効果が高く、長めの残響をもつステージまたは礼拝堂のような空間のようだが、音の濁りは全く認められず、かつ、スターンの絶妙なキータッチ、ペダルワークも捉えていて意外に臨場感もある。古色蒼然とまではいわないまでも枯れた音色のスタインウェイをこういった斬新な手法で弾くと、聴いている途中からチェンバロを操るレオンハルトとかバルヒャとかとオーバーラップしてくるのだ。解釈と演奏に優れ、内容や聴き所も多いこの一枚は、音質的にもよくよく考えられた大人の調音なのであった。こういうフレーバーの高いアルバムに出会うと、音楽って本当に素晴らしいと無条件に思ってしまう。
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♪ よい音楽を聴きましょう ♫

http://tower.jp/item/3996676/
Me-Su-Bach
J.S.Bach: Partitas Nos.1,2 & 6
Partita No.1 in B flat major, BWV825
I. Praeludium
Ii. Allemande
Iii. Corrente
Iv. Sarabande
V. Menuet I-ii
Vi. Gigue
Partita No.2 in C minor, BWV826
I. Sinfonia
Ii. Allemande
Iii. Courante
Iv. Sarabande
V. Rondeaux
Vi. Capriccio
Partita No.6 in E minor, BWV830
I. Toccata
Ii. Allemande
Iii. Corrente
Iv. Air
V. Sarabande
Vi. Tempo Di Gavotta
Vii. Gigue
Edna Stern (Pf)
J.S.バッハ:
パルティータ第1番変ロ長調 BWV.825
パルティータ第2番ハ短調 BWV.826
パルティータ第6番ホ短調 BWV.830
エドナ・スターン(ピアノ)
エドナ・スターンは、過去にはAparteレーベルからショパンのVcソナタをオフェリー・ガイヤールと共に録音しており、このアーティスティックなアルバムは2010年のMusicArena AwardsのPerformance of the yearに選定した。彼女が弾くプレイエルのフォルテピアノは実にキュートで端正、そして滑らかかつ高速運指が印象的だった。
今回のアルバムは過去にさんざん聴いて考えさせられ、ここMusicArenaでも功罪をずっと説いてきた現代ピアノによるバロック期のクラヴィーア作品の録音となる。ちょっと前のこの種の録音で印象に残っている演奏といえばヒューイットがファツィオリで弾いたフーガの技法があげられる。現代ピアノによるパルティータではアシュケナージの全集がスタティックかつ内省的な演奏で無我の境地を描き出していたし、アンドラーシュ・シフの全集もまた、瞑想的で求道的なミニマル志向の秀作だった。一方、ダイナミックでテンペラメンタルな解釈を基調としたペライアのパルティータは前者とは異なったアプローチながら、これはこれでありと納得する解釈だった。
(アラウの未完パルティータ集については敢えて述べない)
ライナーには楽曲解説とともに、Bach on the modern pianoと題するエドナ・スターン自身が書いた現代ピアノとバッハの関係性に関する見解、この風変わりなアルバム・タイトルの説明が載っている。ロンドンの王立音楽院の教職に就いている彼女ならではの明快な分析と信条が窺い知れ、演奏とともに非常に興味深く読んだ。私の拙い翻訳だが以下に記しておく。
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現代ピアノによるバッハ
バッハの音楽をピアノで弾くとき、必然的にペダルの問題が起きる。今の時代にバッハを演奏するピアニストは大きく二分されるように思う。つまり一方はペダルを使い、他方は乾いた響きを優先するためにペダルを使わない。恐らく後者の人たちはチェンバロの音を模倣しようと試みているのだと思う。しかし、バッハは、とりもなおさずオルガンでも弾かれる。
私のアプローチだが、バッハの音楽は審美的なプロトタイプ(=原型、あるいは試作品の意)であって、その音楽たちは限界点を探して遥か彼方まで進化していくであろう、との信念に基づいている。
私は、これらのパルティータは特定のソノリティー(音価の響き)を強制するものではなく、様々な楽器(管、弦、また鍵盤楽器)から声楽的アプローチを引き出すために書かれたと信じている。演奏者はこれらの作品が示す音楽構造、それぞれの声部(対位法で言うところの各旋律ライン)の結び付き、そして各旋律間での印象的な構造を強調すべきと考える。
バッハを演奏するときのペダルの使い方は大変にセンシティブな課題だ。私の信念は、ピアニストはペダルを可能な限り慎重に使うべきだということ。それは、音の透過性、透明性、そして声部間のテンションを保つために重要だからだ。過剰なペダル使用はソノリティーを曖昧にし、それは音楽の精神に反すると私は思っている。
バッハの音楽のパワーは異なる要素間の相互作用から生じる:構造の厳格さと活力あるリズム(鼓動する心臓を人生の必然に比喩する)、忘れえぬ旋律と共に、それらの構築美によって聴く者の心を征服する。
バッハの音楽は、それゆえに声楽的にインスパイアされた解釈を要求すると信じている。歌手がその声帯を震わせるように、ピアニストはピアノの弦を震わせるべきであり、それは実践的にはペダルの使用を意味している。現代ピアノを使用するバッハ演奏において、ピアニストは弦を自由に歌わせることと拘束することとの間で、いかに適正なバランスを見い出すかに注意を払うべきである。
タイトル:Me-Su-Bachの意味
バッハは物静かなユーモアのセンスの持ち主で、それは彼の作品の中に潜んでいる。私は、このCDタイトルにおいてマルチリンガルで少し言葉の遊びを入れようと考えたが、これには、どこかにいるバッハもきっと喜んでくれるだろうと思う。
Me - この演奏の解釈における重要なパーソナリティ(個性)、また主観的な要素を示す。
Su - イタリア語の前置詞であるsuは、一般的に近接または近似を示す。
英語ではこれを、on、upon、onto、on top、over、about、aboveなどと翻訳し、文脈により使い分ける。
Bach - 主題を示す。
また、ヘブライ語で、Mesubach は「複雑な・・」を意味する。これは、バッハの音楽そのものの説明として確かに符合している。
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上記のライナーの記述に関しては、このCDを何度か聴いた後に気が付いて読んだ。そして、なるほど、そういった主義信条で弾いていたのかと納得させられた箇所が多かった。
演奏スタイルとしては冒頭にあげたアシュケナージ、シフとは全く異なるもので、どちらかというとペライアの解釈と方向性は似ているかもしれない。しかし、スターンのこの解釈と演奏は圧倒的にテンペラメンタルで、しかも積極的で彫りの深いデュナーミクの連続に呆気にとられる演奏であり、ここまでダイナミックなバッハ現代ピアノ演奏は殆ど聴いたことがなく、極めて強い衝撃だ。ありきたりの例外を強いて挙げるとすればグールドだろうが、スターンのこの演奏はまさに正統派。グールドみたいによたよたしてはいない。つまり彼女はアゴーギクを殆ど使っていないのだ。
そして、その衝撃もやまぬうちにライナーに書かれた彼女の「論文」が極め付きのとどめを刺す。まさに、バッハの楽曲の多くはプロトタイプ、即ちテンプレートなのであって捉え方は演奏者側の自由な発想と感性に委ねられていると気付くのである。数百年の時の流れを経て、こんなパルティータがあり得るのであろうか? そこには多声のカノンやフーガ、あるいはリチェルカーレが存在するが、そんな形式論を超越した肉声の歌があるのだ。
ライナーで彼女はペダルの重要性を説いているが、この録音を聴くとペダルが肉声におけるヴィブラートの役割を担えることを確かに感じとることができる。それは、特にパルティータ2番BWV826で大いなる発露があって、サスティンをどう使って歌声にするのかが明確に提示される。
1楽章シンフォニアや2楽章アルマンドは緩徐なのでそれほど感じられないかもしれないが、5楽章ロンドに至ると、内声部と主旋律の出し入れが非常に細かく制御され、かつ左右手でデュナーミクの強点が異なるピークを形成するという新機軸を見せ、このパルティータにはこんな音型があったのかと膝を打ってしまうのだ。これは驚き以外の何物でもない。彼女の記述にある「演奏者はこれらの作品が示す音楽構造、それぞれの声部の結び付き、そして各旋律間での印象的な構造を強調すべきと考える。」をそのまま実践しているのである。そして、よく聴くとぺダリングがとても頻繁で、ダンパーを降ろした時のデットな音とダンパーを上げて自由運動させる時の弦の音との対比を自在にコントロールすることで対位法上の重層的なトナリティーを巧妙にコントロールしているのだ。これは、要するに歌っているのであり、声楽的なアプローチとはこれを言っているのであろう。
やはり聴き応えするのはパルティータ6番BWV830である。快活にして闊達なだけでなく、鮮やかな強調により抉り出された予想外の内声部の提示、音価単位で精密にコントロールされるデュナーミクとサスティンペダルは、なんだか人知を超えた超絶技巧と言わざるを得ない。今まで聴いてきたパルティータ6番の中でも最もチャレンジングな解釈と演奏であり、中毒性が強くて何度も何度も聴きたくなる語り口。ヴィヴィッド、やんちゃ、明媚で直截的な情感表現、そして超絶技巧。個人的にはとっても好きだ。
1楽章トッカータはメロウで憂鬱な第1主題が有名だが、大概は情感豊かにアゴーギクを付けるところ、彼女はそれは使用せずドライにやり過ごす。展開部に入ると穏やかなテンポ取りでデュナーミクを駆使し静かに歌い始めるのだ。3楽章コレンテがこの演奏における精神のピークの一つと言えるような聴きどころ。作りとしては2声のフーガだが、どちらかというと左の活躍は少なくてモノフォニーに近い。右手の闊達さ加減は半端なく、とにかく凄いのひとこと。そして最終楽章ジーグは間違いなくこの曲の最高のピークであり、彼女の技巧、思想がぎゅっと凝縮されている「歌」そのものだ。左右手での主声部の頻繁な交代、そして音価のリリース(=音の消え際)まで計算された微細で精密なぺダリング、深い彫琢のデュナーミクの連続、青白い炎のようなテンペラメントは白眉中の白眉だ。
エドナ・スターンのバッハへのアプローチは明快でシンプルなシンタックスを基礎にしている。そして正攻法でありながら新鮮な驚きと感動を聴く者に与え、そして強い印象で残り続ける鋭敏なバッハ解釈・演奏だ。
(録音評)
Orchid Classics ORC100050、通常CD。録音はちょっと古くて2014年10月、フランスのコンピエーニュ帝国劇場とある。ピアノはおそらくスタインウェイのちょっと古いフルコンサート・グランド。音色は軽めで中高域に僅かだが混変調が認められる使い込まれた個体だ。このヴェニューは音響効果が高く、長めの残響をもつステージまたは礼拝堂のような空間のようだが、音の濁りは全く認められず、かつ、スターンの絶妙なキータッチ、ペダルワークも捉えていて意外に臨場感もある。古色蒼然とまではいわないまでも枯れた音色のスタインウェイをこういった斬新な手法で弾くと、聴いている途中からチェンバロを操るレオンハルトとかバルヒャとかとオーバーラップしてくるのだ。解釈と演奏に優れ、内容や聴き所も多いこの一枚は、音質的にもよくよく考えられた大人の調音なのであった。こういうフレーバーの高いアルバムに出会うと、音楽って本当に素晴らしいと無条件に思ってしまう。
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by primex64
| 2016-04-20 00:03
| Solo - Pf
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