2014年 12月 31日
Schubert: 3 Klavierstucks; Prokofiev: P-Sonata#7; Chopin: Preludes Op.28@Yulianna Avdeeva |
MIRAREの新譜で、2010年のショパン・コンクールのウィナーであるユリアンナ・アヴデーエワのシューベルト、プロコフィエフ、ショパンの作品集。なお、これはMIRAREデビュー盤となる。
http://tower.jp/item/3655794/
Yulianna Avdeeva play Chopin, Schubert & Prokofiev
CD1:
Schubert: Klavierstücke (3), D946
Prokofiev: Piano Sonata No.7 in B flat major, Op.83
CD2:
Chopin: 24 Preludes, Op.28
Yulianna Avdeeva (Pf)
CD1:
シューベルト: 3つのピアノ曲(第1曲変ホ短調、第2曲変ホ長調、第3曲ハ長調)
プロコフィエフ: ピアノ・ソナタ第7番Op.83
CD2:
ショパン: 24の前奏曲Op.28
ユリアンナ・アヴデーエワ(ピアノ)
ユリアンナ・アヴデーエワはコンクール制覇後に来日公演も果たしておりその経歴は有名だろうから、敢えてここで多くは書かないが、要点だけ記しておく。
アヴデーエワは2010年開催の第15回ショパン国際コンクールの本選で一位、かつ最優秀ソナタ賞も獲得している。女性覇者としてはアルゲリッチ以来、45年ぶり2人目の快挙ということで華々しく報道されて一躍有名になったし、その後、世界各地での人気も上々のようだ。
彼女は1985年モスクワ生まれというから、コンクール優勝当時は25歳、年が明けると30歳ということになる。クラシックの世界だと30歳はまだ駆け出しという印象だが昨今では才能溢れるティーンエージャーが台頭してきており、この年齢だと中堅の入り口という感じだろうか。
若年期にはグネーシン音楽大学の中等音楽学校に入っていて、ここで名教師エレナ・イヴァノワに師事。その後2003年にはスイス留学してチューリッヒ音楽大学にてコンスタンティン・シチェルバコフに学ぶようになる。なおシチェルバコフはゲンリヒ・ネイガウス(=あのブーニンの祖父)の門下であるレフ・ナウモフに師事した人物で、ロシア・ピアニズムの源流を汲む系譜と言える。これとは並行してグネーシンにも籍を残していて、かのウラディーミル・トロップにずっと師事していたようだ。
グネーシンを出た著名なピアニストとしてはリフシッツやキーシンの名が浮かぶ。もう少し身近なところでは日本国内で活動するイリーナ・メジューエワがグネーシン出身、師事したのが同じウラディーミル・トロップと、アヴデーエワの先輩門下生ということになる。
通常、ショパンコンクール優勝後のデビュー盤はオール・ショパンであることが殆どだが、このアルバムはそうではない2枚組。プログラムの由来に関してはキングインターなどの販促テキストにあるので詳細は書かないが、アヴデーエワ自身がプロコフィエフの経歴からインスパイアされて組み立てたものとのことだ。このCDはMIRAREにおけるデビュー盤であるが、それ以前にはNIFC(ワルシャワの国立ショパン研究所)レーベルからPコン全集(この前に逝去したブリュッヘン+18世紀オーケストラとの共演)が出ている。
さて、このアルバムの出来だが、正直言って微妙なところだ。1枚目冒頭にはシューベルトの最晩年の遺作といってよい傑作中の傑作、D946を持ってきている。旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、ではないが、シューベルトの辞世のメッセージが含まれていると思わされる、自身の音楽人生の縮図を走馬灯のようにフラッシュバックするような三部構成である。どの曲も茫洋としながらも淡々と歩を進める真摯で純朴な曲想が特徴なのだが、アヴデーエワの演奏はそういった雰囲気はなくて、相当に強いアゴーギクによってよたよたしながら鈍重に歩く感じだ。彼女なりのロマン派的解釈によってこうしているのだろうが、なんだか船酔いしそうで気持ちよくない。
1枚目の後半はプロコフィエフのPソナタ7番だが、これは良い出来栄えだ。デモーニッシュなマーチ風スケールも飛翔感漂う全音音階風スケールもテンポが均質に保たれており、また、打鍵圧のコントロールも絶妙だ。プロコのこの時代の作品は前衛的で殆ど無調性と言ってよい、演奏が難しい曲が多いなか、アヴデーエワのこの解釈は当を得ており、色彩感に溢れた明媚な仕上がりと言ってよい。但し、前のシューベルトにも言えたことだが、打鍵が太くて弱音部の微細な描写も潰れがち。どことなく全盛期のリヒテルのワイルドなタッチを想起させられる。
2枚目はショパンのプレリュードOp.28全曲にあてている。このプレリュードは色々な解釈があってよい、自由度の高い曲集なのだが、ここでもシューベルトに聴かれたような極端なアゴーギクが展開され、時間軸の揺らぎが大きくて落ち着かない箇所が多い。技巧的には盤石であり十分にじょうずなのだが、やはり弱音部の微細な表情が乏しく、隈取がどうしても太くてデリカシーが不足気味なのが残念なところ。ショパン作品の典型的な一面であるなよとしたアンニュイさが披瀝される場面が潰れてしまっていて、パワフルで毅然とした一面へ全体的に片寄せされている印象。また、有名な15番は可もなく不可もなくただ平坦にして凡庸。独特のアゴーギクが快活に生かされているのは唯一、17曲目くらいだろうか。これは疾駆感と彼女の曲想が巧くシンクロしていて素晴らしかった。
同じグネーシンの出身にしてトロップ門下のメジューエワの表現幅と比較したくなるのは人情というもの。だが、それを行うことは演奏経験の乏しいアヴデーエワにとっては酷なことゆえ妥当ではないだろう。更に、著名コンペティション、特に5年に1度のショパン国際でのウィナーがその後順風満帆に活躍できるという保証はなく、事実、過去の受賞者のうち世界のピアノ楽壇において永続的に名声を得ているケースはそう多くはない。アヴデーエワが今後どのような足跡を辿るかは注目していきたい。
蛇足だが、日本にとってアヴデーエワの優勝がもたらした成果というのが実はあって、それは、彼女は予選から本選に至るまでの全てのセッションをヤマハCFXで演奏したことだ。メイド・イン・ジャパンのピアノがショパン国際を制した、とは言わないまでも今までこれほど完璧な快挙はなかったと記憶する。確かに、ヤマハのピアノは性能や品質面においてはスタインウェイやベヒシュタインとそうそう違いがあるとは思えないのである。科学的に説明がつかない、一種芸術的なフレイバーが備わっているか否かという一点を除いては。
(録音評)
MIRARE、MIR252、通常CD。2014年2月10-13日 レ・ヴィンチ、コンベンションセンター、ピエール・ド・ロンサール・オーディトリウムとある。音質は明晰でアンビエントも広大に展開する素晴らしい出来栄え。使用楽器に関するクレジットは一切されておらず、またライナーにあるピアノ鍵盤の蓋の写真からもロゴが画像処理で消去されているので判然とはしないところだが、音調からいうとスタインウェイでもベヒシュタインでもベーゼンドルファーでもない。恐らく、ヤマハのCFXかCFIIだと思われる質感であり、MIRAREが友好関係にある前者2社への配慮からか伏せているのではなかろうかと憶測する。全体の音質としては質量感を伴う重ため、かつドライな印象、ブリリアンスの少ない高域弦、暖色系の混変調歪をともなう独特の中域弦という特徴がある。
個人的には、ショパンの前奏曲集やバラードのような感傷的でエモーショナルな作品群にはヤマハは向かないと思っている。国産ならばカワイのほうが断然合うはずだ。こういった細めの曲集はフォルテピアノ期の楽器ならばプレイエルかエラール、現代ピアノならばスタインウェイが適すると思う。アヴデーエワのこの演奏を聴き、途中でリヒテルの音を想起したのは楽器のせいだったのかもしれないと、後になって思い返した。なぜならリヒテルはヤマハ製ピアノの愛好家であったためだ(=ずっと忘れていた)。今とリヒテルの時代の楽器の音は相当に違うはずなので、たぶん、たまたまそう感じただけであり、楽器のせいではないと信じたいが。
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Yulianna Avdeeva play Chopin, Schubert & Prokofiev
CD1:
Schubert: Klavierstücke (3), D946
Prokofiev: Piano Sonata No.7 in B flat major, Op.83
CD2:
Chopin: 24 Preludes, Op.28
Yulianna Avdeeva (Pf)
CD1:
シューベルト: 3つのピアノ曲(第1曲変ホ短調、第2曲変ホ長調、第3曲ハ長調)
プロコフィエフ: ピアノ・ソナタ第7番Op.83
CD2:
ショパン: 24の前奏曲Op.28
ユリアンナ・アヴデーエワ(ピアノ)
ユリアンナ・アヴデーエワはコンクール制覇後に来日公演も果たしておりその経歴は有名だろうから、敢えてここで多くは書かないが、要点だけ記しておく。
アヴデーエワは2010年開催の第15回ショパン国際コンクールの本選で一位、かつ最優秀ソナタ賞も獲得している。女性覇者としてはアルゲリッチ以来、45年ぶり2人目の快挙ということで華々しく報道されて一躍有名になったし、その後、世界各地での人気も上々のようだ。
彼女は1985年モスクワ生まれというから、コンクール優勝当時は25歳、年が明けると30歳ということになる。クラシックの世界だと30歳はまだ駆け出しという印象だが昨今では才能溢れるティーンエージャーが台頭してきており、この年齢だと中堅の入り口という感じだろうか。
若年期にはグネーシン音楽大学の中等音楽学校に入っていて、ここで名教師エレナ・イヴァノワに師事。その後2003年にはスイス留学してチューリッヒ音楽大学にてコンスタンティン・シチェルバコフに学ぶようになる。なおシチェルバコフはゲンリヒ・ネイガウス(=あのブーニンの祖父)の門下であるレフ・ナウモフに師事した人物で、ロシア・ピアニズムの源流を汲む系譜と言える。これとは並行してグネーシンにも籍を残していて、かのウラディーミル・トロップにずっと師事していたようだ。
グネーシンを出た著名なピアニストとしてはリフシッツやキーシンの名が浮かぶ。もう少し身近なところでは日本国内で活動するイリーナ・メジューエワがグネーシン出身、師事したのが同じウラディーミル・トロップと、アヴデーエワの先輩門下生ということになる。
通常、ショパンコンクール優勝後のデビュー盤はオール・ショパンであることが殆どだが、このアルバムはそうではない2枚組。プログラムの由来に関してはキングインターなどの販促テキストにあるので詳細は書かないが、アヴデーエワ自身がプロコフィエフの経歴からインスパイアされて組み立てたものとのことだ。このCDはMIRAREにおけるデビュー盤であるが、それ以前にはNIFC(ワルシャワの国立ショパン研究所)レーベルからPコン全集(この前に逝去したブリュッヘン+18世紀オーケストラとの共演)が出ている。
さて、このアルバムの出来だが、正直言って微妙なところだ。1枚目冒頭にはシューベルトの最晩年の遺作といってよい傑作中の傑作、D946を持ってきている。旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、ではないが、シューベルトの辞世のメッセージが含まれていると思わされる、自身の音楽人生の縮図を走馬灯のようにフラッシュバックするような三部構成である。どの曲も茫洋としながらも淡々と歩を進める真摯で純朴な曲想が特徴なのだが、アヴデーエワの演奏はそういった雰囲気はなくて、相当に強いアゴーギクによってよたよたしながら鈍重に歩く感じだ。彼女なりのロマン派的解釈によってこうしているのだろうが、なんだか船酔いしそうで気持ちよくない。
1枚目の後半はプロコフィエフのPソナタ7番だが、これは良い出来栄えだ。デモーニッシュなマーチ風スケールも飛翔感漂う全音音階風スケールもテンポが均質に保たれており、また、打鍵圧のコントロールも絶妙だ。プロコのこの時代の作品は前衛的で殆ど無調性と言ってよい、演奏が難しい曲が多いなか、アヴデーエワのこの解釈は当を得ており、色彩感に溢れた明媚な仕上がりと言ってよい。但し、前のシューベルトにも言えたことだが、打鍵が太くて弱音部の微細な描写も潰れがち。どことなく全盛期のリヒテルのワイルドなタッチを想起させられる。
2枚目はショパンのプレリュードOp.28全曲にあてている。このプレリュードは色々な解釈があってよい、自由度の高い曲集なのだが、ここでもシューベルトに聴かれたような極端なアゴーギクが展開され、時間軸の揺らぎが大きくて落ち着かない箇所が多い。技巧的には盤石であり十分にじょうずなのだが、やはり弱音部の微細な表情が乏しく、隈取がどうしても太くてデリカシーが不足気味なのが残念なところ。ショパン作品の典型的な一面であるなよとしたアンニュイさが披瀝される場面が潰れてしまっていて、パワフルで毅然とした一面へ全体的に片寄せされている印象。また、有名な15番は可もなく不可もなくただ平坦にして凡庸。独特のアゴーギクが快活に生かされているのは唯一、17曲目くらいだろうか。これは疾駆感と彼女の曲想が巧くシンクロしていて素晴らしかった。
同じグネーシンの出身にしてトロップ門下のメジューエワの表現幅と比較したくなるのは人情というもの。だが、それを行うことは演奏経験の乏しいアヴデーエワにとっては酷なことゆえ妥当ではないだろう。更に、著名コンペティション、特に5年に1度のショパン国際でのウィナーがその後順風満帆に活躍できるという保証はなく、事実、過去の受賞者のうち世界のピアノ楽壇において永続的に名声を得ているケースはそう多くはない。アヴデーエワが今後どのような足跡を辿るかは注目していきたい。
蛇足だが、日本にとってアヴデーエワの優勝がもたらした成果というのが実はあって、それは、彼女は予選から本選に至るまでの全てのセッションをヤマハCFXで演奏したことだ。メイド・イン・ジャパンのピアノがショパン国際を制した、とは言わないまでも今までこれほど完璧な快挙はなかったと記憶する。確かに、ヤマハのピアノは性能や品質面においてはスタインウェイやベヒシュタインとそうそう違いがあるとは思えないのである。科学的に説明がつかない、一種芸術的なフレイバーが備わっているか否かという一点を除いては。
(録音評)
MIRARE、MIR252、通常CD。2014年2月10-13日 レ・ヴィンチ、コンベンションセンター、ピエール・ド・ロンサール・オーディトリウムとある。音質は明晰でアンビエントも広大に展開する素晴らしい出来栄え。使用楽器に関するクレジットは一切されておらず、またライナーにあるピアノ鍵盤の蓋の写真からもロゴが画像処理で消去されているので判然とはしないところだが、音調からいうとスタインウェイでもベヒシュタインでもベーゼンドルファーでもない。恐らく、ヤマハのCFXかCFIIだと思われる質感であり、MIRAREが友好関係にある前者2社への配慮からか伏せているのではなかろうかと憶測する。全体の音質としては質量感を伴う重ため、かつドライな印象、ブリリアンスの少ない高域弦、暖色系の混変調歪をともなう独特の中域弦という特徴がある。
個人的には、ショパンの前奏曲集やバラードのような感傷的でエモーショナルな作品群にはヤマハは向かないと思っている。国産ならばカワイのほうが断然合うはずだ。こういった細めの曲集はフォルテピアノ期の楽器ならばプレイエルかエラール、現代ピアノならばスタインウェイが適すると思う。アヴデーエワのこの演奏を聴き、途中でリヒテルの音を想起したのは楽器のせいだったのかもしれないと、後になって思い返した。なぜならリヒテルはヤマハ製ピアノの愛好家であったためだ(=ずっと忘れていた)。今とリヒテルの時代の楽器の音は相当に違うはずなので、たぶん、たまたまそう感じただけであり、楽器のせいではないと信じたいが。
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by primex64
| 2014-12-31 13:42
| Solo - Pf
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