Byrd:Clarifica me/J.S.Bach:BWV1079/Ligeti:Passacaglia@Mahan Esfahani |
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Mahan Esfahani: Byrd, Bach, Ligeti
Byrd:
Clarifica me, Pater 1
Clarifica me, Pater (plainchant)
Clarifica me, Pater 2
Clarifica me, Pater 3
Jhon come kiss me now
The Fifte Pavian
The Galliard to the Fifte Pavian
The Marche Before the Battel
Fancie (My Ladye Nevells Book, No. 41)
The Firste Pavian
The Galliard to the Firste Pavian
Callino casturame
Fantasia (Fitzwilliam Virginal Book, No. 52)
Walsingham
Bach, J S:
Musical Offering, BWV1079: Ricercar a 3
Musical Offering, BWV1079: Ricercar a 6
Musical Offering, BWV1079: Canon a 2 per tonos
(Ascendenteque Modulatione ascendat Gloria Regis)
Ligeti:
Passacaglia ungherese für Cembalo
Continuum für Cembalo
Hungarian Rock (Chaconne) für Cembalo
Mahan Esfahani(Cem)
ウィリアム・バード:
解き明かしたまえ(I、II、III、単旋律聖歌)
ジョン、今すぐキスしに来て
第5パヴァーヌと第5パヴァーヌへのガリアルド
戦いへの行進曲
私のネヴェル夫人の曲集より第41番「ファンシー」
第1パヴァーヌと第1パヴァーヌへのガリアルド
カリーノ・カストゥラメ
ファンタジア
ウォルシンガム
J.S.バッハ:
音楽の捧げものBWV1079より
3声のリチェルカーレ
6声のリチェルカーレ
2声のカノン:昇り行く調が如く王の栄光高まらんことを
リゲティ:
ハンガリー風パッサカリア(1978)
コンティヌウム(1968)
ハンガリアン・ロック(1978)
マハン・エスファハニ(チェンバロ)
奏者に関しては以下の輸入元のテキストを参照:
1984年テヘラン出身のチェンバロ奏者マハン・エスファハニ。幼少の頃から父にピアノを習い、10代の時にオルガンとチャンバロに興味を持ち転向。その後彼の名を広めたのが、チェンバロ奏者として初めてBBCラジオ3の「ニュー・ジェネレーション・アーティスト」に選出され、ボルレッティ・ブイトーニ・トラストのフェローシップ賞もチェンバロ奏者として初受賞するなど一気に注目を集めました。大統領奨学生としてスタンフォード大学で音楽学者のジョージ・ホールのもとで学び、さらにボストンでオーストラリアのチェンバリスト、ピーター・ワッチオーン、ミラノでイタリアのオルガニスト、ロレンツォ・ギエルミに師事。チェコの有名なチェンバロ奏者のズザナ・ルージチコヴァーにも手ほどきを受けています。2013年には来日も果たし、その斬新な演奏に高い評価があつまりました。このプログラムは、バードの鍵盤作品に焦点を当て、バッハの名作である「音楽の捧げもの」を真ん中に配置し、リゲティのチェンバロのための作品で締めくくられています。バードは、エリザベス朝最大の作曲家として、英国バロック音楽を代表する一人。自身オルガニストとしても活躍したバードならではの膨大な鍵盤楽器作品の数々から選曲されています。リゲティの「ハンガリー風パッサカリア」は、スウェーデンのチェンバロ奏者オヴェ&エヴァ・ノルドヴァル夫妻に献呈された曲で中全音律における8つの純正な長3度と短6度の音程が、パッサカリアとして反復されます。「ハンガリアン・ロック」はポーランドのエルジュビエタ・ホイナツカに、「コンティヌウム(連続体)」はスイスのアントワネッテ・M.フィッシャー夫人に捧げられています。時代を超えた作曲を見事に一つのプログラムとしてまとめあげた、革新的な演奏です。
(キングインターナショナル)
ウィリアム・バード(William Byrd, 1540~1623年)は日本ではあまり知られていない人物だと思う。16~17世紀に活躍したイギリスの古い時代の作家であり、超多声のモテットの大作を書いたことで高名なトーマス・タリスの弟子だった。彼らの代表的作品である歌曲のアルバムは過去に取り上げたことがある。
対位法はポリフォニーの典型的な実現方式の一つである。これは古典派からロマン派を経て現代音楽、そしてロックやポップスを代表とする当世の流行歌に至るまでの音楽スタイルの主流として浸透しているホモフォニーよりも相当に長い歴史を持つ音楽構築技法であり、MusicArenaでは今までことあるたびに取り上げてきた。私たちが対位法と言った場合、たいがいは18世紀の多声音楽のことをを指だろう。即ち、殆ど隙のない精密な音符のテクスチャで組まれたJ.S.バッハのカノン、フーガ、リチェルカーレあたりに代表されるバロック様式のストイックな作品を連想するはずだ。
対位法の歴史は、和声、拍子、更には調性、長調/短調が確立されるよりもずっと以前の旋法歌唱の時代に遡る。単声あるいは同一音程をなぞるユニゾンで構築された代表的な歌曲の例としては誰もが知るグレゴリア聖歌があげられるが、これは実に9~10世紀に作られた音楽である。その後、単声を上下に数度(=音符としての度数のこと)シフトした旋律を同時平行で発声する工夫が施され、旋法、歌唱は飛躍的にその厚みを増した。これが10世紀の中後半の出来事であり、この唱法が対位法の源流であるオルガヌムと言うことになる。その後オルガヌムは徐々に進化を続けて拍子を獲得して自由オルガヌムとなり、更にホモフォニー的な通奏低音または通奏高音が併用されるメリスマ的オルガヌムへと発展する。12~13世紀はアルス・アンティクア(古典的技法)と呼ばれ、声の多重化、即ち2から3、そして4声以上へと多様化した時代。14世紀はアルス・ノヴァ(新しい技法)と呼ばれる時代で、ここでは拍子とリズムの多様化を獲得することとなる。
この後の15~16世紀がルネッサンス期となり、それぞれの声部が強い従属関係なしに自由に歌われる一種の輪唱を基礎とするパレストリーナ様式が流行し、これに加えて同時発声される和音という概念、これを重畳したハーモニー(和声)という概念が加わる。これらがそのあとのバロック期に繋がる実用的な対位法の始祖と言ってよい音楽形態と言えるだろう。トーマス・タリス、そしてこのアルバムの主役であるウィリアム・バードが属していたのがまさにこのルネッサンス期の対位法の世界である。
因みにその後、18世紀に入ってバッハなどの大家が活躍したが、この頃になると楽器の性能・機能が発展したことに加え、基底とされる調性=短調/長調という概念もようやく定着を見て、現在においても古臭さを感じさせない肉声と器楽音とを複合させた多元的な音楽構築技法が確立されたと言ってよい。
前置きが長くなった。冒頭のバードの小品群だが、基本的な2声をベースとしたシンプルで心に沁みる曲想が複雑系の現代にあっては寧ろ新鮮かつ衝撃かもしれない。概して明るめ=つまり長調系=の作品が並ぶ。多くは彼の地の民謡からインスパイアされたとあり、そこに教会音楽の旋法を微妙に加えているので長調なのか短調なのかは判然としない部分においてはまさにルネッサンス期の茫洋感が出ていると言えよう。前半パートの白眉はファンタジア。これは、その後のバッハと同時代のブクステフーデの作風の基礎となったものと勝手に感じてしまった。
そして中間部には抜粋ながらバッハの捧げものを大胆に配置している。これほど日常的に聴き慣れた曲になるとちょっとの誤差・差異が嫌でも気になってしまうところ、エスファハニのこの解釈は至極全うで違和感はそれほどない。敢えて特徴をあげるとすると、高速で均質なパッセージ、嫌味のない穏健なルバート、それと骨太かつ律儀で無愛想ともいえる拍子の刻み方にある。
不可思議で不安を煽るフリードリヒ大王の短い主題(=実際には違う人の主題との説もあるが)をここまで拡張・変奏して一組の重厚な音楽として完成させたバッハには今更ながら脱帽だ。譜面にしっかりと起こした上で後々の高い音楽再現性を保障したという点においては同列に語ることは出来ないかもしれないが、これは現代におけるジャズのインプロヴィゼーション(=アドリブ)の手口とほぼ同じ「崩し方」であり、一見すると相関性のない旋律が同一時間軸上に短い時間差を置いていくつも現れては消えていくという「複線化」の技法は現代においても常套的に使われている。
最後を飾るのがリゲティの現代作品だ。なぜリゲティなのかというと、これらの作品は紛れもない対位法表現で書かれた作品群だからだ。また、いずれの曲もある意味パロディー的な性格を持った習作ではなかろうか、と個人的には思っている。
まず、パッサカリアだが、これは現代音楽だと言われなければアーリー・ミュージックに分類される(プロシア風の)パッサカリアだと勘違いするほど正統的かつ厳密な意味での多声のバロック式対位法が用いられている。ただ、旋律進行の前衛性、特に増3度、6度、短7度などの斬新で違和感を誘う音程変移が耳に障るという点では古い時代の作品ではないだろうとの類推はかろうじて成り立つ。リゲティ自身がバロック期の対位法に精通しており、これを用いて自分なりの音楽フレーバーを表現するならばこうなる、といった習作ではなかろうかと思っている。
Continuumは、輸入元の記述ではコンティヌウムとなっているが、英語の発音では「カンティニュアム」が近い。この用語は、数学の集合論においては連続体(実数全体のなす集合、あるいはそれに対応する基数)を意味し、位相空間論においては、空(Null)でないコンパクトで連結な距離空間、あるいは場合によってはコンパクトで連結なハウスドルフ空間のことを言う(※ここでの「コンパクト」、「連結」は位相空間論での専門用語であり、通常使われる意味とは異なる)。何のことかさっぱりである。Continuumとは、一般的には連続したある種の空間、あるいはある物の集合体を意味し、もっと簡単に、物が連続している様子、と理解しても大きな間違いはなかろう。
実際にこの曲を初めてかけた時はびっくりした。盤面に酷い傷がついたCDを再生すると派手にトラッキング・エラーを起し、電子的・人工的・破滅的なノイズが鳴り響くことがあるが、まさにそんな音の連続体であり、一種のトーン・クラスタといえる。譜面を見たわけではないので憶測だが、高速な三連符のみで構成された旋律がトリルとトレモロで連続的に掻き鳴らされる様子を想像して欲しい。その中心音程が微妙かつ連続的に2度または3度、あるいは5度と上下に揺らめきながら不規則に偏移する。その中心音程は右手と左手とでは1オクターブ以上隔たっており、それぞれが何の脈絡・連関性もなく旋律(といえないかもしれないが)を刻むことから、これは一種の対位法であろう。これは何かを表現した音楽というよりはオシレータやシンセサイザで合成された信号音そのものを純粋に楽しむという趣向と思われる。この音がチェンバロから出ているということ自体が信じられない。私が目を瞑ってこの曲を聴いたとき脳裏に浮かぶ景色がある。空間にぷかりと浮く自分に向かい、宇宙の果てであるバニッシング・ポイントから明滅しながらシャワーのように飛来する7色の眩しい多数の光束(ビーム)が自分の体を撃ち抜いて過ぎ去っていく、という支離滅裂な光景だ。ま、感じ方は人それぞれだろうが。
ハンガリアン・ロックは、まさに8ビートのロック、もしくはポップス基調の曲である。どこがハンガリー風なのかは判然としないが、なんとなくセピア調のグラムロックを想像すれば大きな隔たりはないと思う。演奏時間はかなり長く、同じ拍子で同じような旋律がリフレインされるので途中で飽きてくる。だが、そんな聴く側の心理を見透かしたようにインプロヴィゼーションが始まる。3声、4声の重厚なフーガあるいはリチェルカーレには及ばないが、きっちりと2声の独立した旋律が左右手でバラバラに弾かれていく。ある種ジャズの崩し方に似たところはあるが、むしろこれは捧げものやバードのファンタジアの技法に近いものがあって多分に幾何学的というか級数的な規則性が潜んでいることに気付かされる。これもまた、ロックという現代において非常にポピュラーな作曲形態に古い時代の対位法的アプローチを持ち込むとこうなる、というパロディー的習作ではなかろうか。
このアルバムはエスファハニの超絶的なチェンバロ打鍵術を味わうに留まらず、チェンバロという楽器の可能性に関しても示唆に富むもの。また、遠くルネッサンス期から現在に至る作曲技法、音楽表現のあり方を一つの断面で切って検証するという意味合いにおいても前衛的かつチャレンジングな内容となっている。対位法とは何か、を、実際の音、音楽を聴くことでじっくりと復習するには好適なアルバムだ。
(録音評)
Wigmore Hall Live WHLIVE0066、通常CD。録音は2013年5月3日ウィグモア・ホール、ロンドン、ライヴ。音質だが、地味でブリリアンスが殆どない暗めの音色だ。使われている楽器の詳細はわからないが割と大型の現代制作のチェンバロではなかろうか。ウィグモア・ライブとしては珍しくオンマイク収録で音像は大きめ。だが、空間情報は豊かに含まれており、弦の音が静かにサウンドステージに吸収されていく様子が捉えられている。世間的にチェンバロの録音というと線が細くて高域に特有の歪感を伴ったものが殆どだが、この録音はそうではなく図太いボディ感を基底としたピラミッドバランスを構成していて、ある意味で新機軸といえる。
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