Tchaikovsky: P-Con#2@B.Berezovsky,A.Vedernikov/Sinfonia Varsovia |

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Tchaikovsky: Piano Concerto No.2
Tchaikovsky:
Piano Concerto No.2 in G major, Op.44
with Jakub Haufa(Vn) & Marcel Markowski(Vc)
Theme & Variations (No.6 from Morceaux (6), Op.19)
12 Morceaux, Op.40(excerpts)
Valse sentimentale, Op.51 No.6
Andante Cantabile (from String Quartet No.1 in D Op.11)
Boris Berezovsky (Pf) & Henri Demarquette (Vc)
Sinfonia Varsovia, Alexander Vedernikov
チャイコフスキー:
(1)ピアノ協奏曲第2番ト長調Op.44(オリジナル版)
(2)主題と変奏曲Op.19の6
(3)悲しき歌Op.40の2
(4)マズルカOp.40の5
(5)無言歌Op.40の6
(6)村にてOp.40の7
(7)ワルツOp.40の8
(8)感傷的なワルツOp.51(クバツキー編VcとPf版)
(9)アンダンテ・カンタービレOp.11(ゲリンガス編VcとPf版)
ボリス・ベレゾフスキー(Pf)
アンリ・ドマルケット(Vc)(8)(9)
アレクサンドル・ヴェデルニコフ(指)シンフォニア・ヴァルソヴィア(1)
チャイコフスキーの協奏曲のことは、しばしば「チャイコン」と縮めて呼ぶ。Vnのための協奏曲は一曲しか書いていないのでチャイコンと言えばニ長調Op.35を指すことは間違いようがない。一方、Pfの方のチャイコンと言えば、第1番変ロ短調Op.23を指すことが定番である。しかし、実はチャイコフスキーは生涯に3つのピアノ協奏曲を書いていて、1番をチャイコンと呼ぶからには、他の二つが殆ど演奏されないということを意味している。
2番は今回ベレゾフスキーが弾いたこれである。3番と呼ばれるものも現存はしているが第1楽章の殆どを書き終えたところでチャイコフスキーが逝去したため未完に終わっていて演奏するには中途半端な状態だ。元々この曲はPコンで構想されたものではなくて、自身の生涯を振り返る集大成的な交響曲として着手され、途中で方針転換してPコンに焼き直している途中で遺作となった、というちょっと変わった経緯を持ち、全体像が見えていない中、聴きどころが殆どないというのが演奏されない理由と思われる。
未完の3番はさておき、なぜ2番は殆ど演奏されないのか。1番がドラマティックな展開で絶大な人気を誇っていて演奏機会が多いのに比べると、2番が単に地味で長く退屈な出来栄えであること、2楽章には割と周到なVnおよびVa独奏を組み込んでいて、そのためソリストを3人も確保することの困難性も演奏機会に影響していると個人的には思っている。
2番は1879年から1880年にかけて作曲されたとされる。献呈先は仲の良かったピアニスト、指揮者、作曲家であるニコライ・ルービンシュタインであった。しかし、ニコライは1881年に病気で急逝したため世間に披露されるのは先に延ばされ、初演はさらに翌年の1882年だった。モスクワにてピアノ=弟子のセルゲイ・タネーエフ、指揮=ニコライの兄アントン・ルービンシュタインで行われ、概ね好評だったとされる。
タネーエフは1~2楽章が概してダルで長いから部分的にカットして短縮した方が良いと提案し、チャイコフスキーもそれに同意したそうで、その改訂を弟子のアレクサンドル・ジロティに作業させたそうだ。ところが、ジロティのカットが余りに大胆でチャイコフスキーの意にはそぐわなかったようで自らが改訂に着手したそうだ。改訂作業の途中の1833年、彼は残念ながら逝去したので、その改訂譜が出版されることはなかった。このため長い間、ジロティ版が正規版として流通することとなった。
チャイコフスキーの死からだいぶ経った1955年、当時高名なピアニスト/作曲家/音楽教育者であったというアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルがチャイコフスキーの手書きの改訂譜を見つけ、そこから最小限のカットを施した「オリジナル」版を復刻させ現在に至っているようだ。そういうこともあって、殆ど演奏はされない2番にはジロティ版とオリジナル版の2つが存在することとなったのだが、このベレゾフスキーの演奏は後者によるもの。
実は、2番は個人的には結構好きな曲なのである。派手でメランコリック、そしてあまりにベタなロマンチシズムを披瀝した1番よりもチャイコフスキーの質実剛健な面が見えて良いと思っている。だが、録音は何枚か持っているけれども最近のものでは余り満足行くものがなくてこの場で取り上げたことはないと思う。そして、ここにきてようやく本格的に鑑賞に堪える録音が出てきたのでとても嬉しい。しかも現代ロシア・ピアニズムを強力に牽引するベレゾフスキーの手によるとはこれまた幸甚の限りだ。
1楽章ト長調アレグロ・ブリランテ、のっけから重々しく最大音圧のオケ、及びベレゾフスキーのオクターブ奏法が咆哮する。かなり長い楽章であるが重厚でいぶし銀的なオーソドックスな和声展開が威風を放つ堂々たるアレグロだ。ピアノの技巧的にはかなりの要素を要求するヴィルトゥオージックなパートが殆どであり、指の短い人もしくはパワー的に劣っている人には辛い楽章だがベレゾフスキーの剛腕にかかれば軽い和音に聴こえてくるから不思議だ。
2楽章ニ長調アンダンテ・ノン・トロッポ、ここが特徴的で異端の緩徐楽章だ。ブラームスのVnコンの冒頭に似てなかなか独奏楽器が登場せず、VnとVcがさらさらと流れるオケを背景にずっとデュエットを続ける。しかし不快感はなくて寧ろゆったりと、他のどのPコンにも見られない嫋やかで優美な時間が過ぎる。満を持して登場するベレゾフスキーのPfは冒頭楽章に見られた剛健さとは打って変わった落ち着き払った柔和なメロディを織り上げていく。但し、ここが平坦過ぎて面白みに欠けるとの誹りは分からなくはない。自分としては大いに好きなのだが。
3楽章ト長調アレグロ・コン・フォオコ、明るくて分かりやすいシンプルな主題、そしてトレモロと分散和音が煩瑣に打ち鳴らされながら、高速に上昇また下降するなクロマティックなスケールがパワフルで印象的なロンド形式。随所で炸裂するオケ/独奏のアチェレランドの競演がスリリングで白眉。余りにも短くあっという間に迎えるコーダにはもうちょっと聴いていたいと思わされる何かがある。
後半はピアノ独奏のショート・ピースでスタート。まずは主題と変奏Op.19。まさに霊妙としか言いようのないpp(ピアニッシモ)から瞬間的に沸騰するff(フォルティッシモ)まで変幻自在で滞りなく歩が進められる。プレストの間欠的な強打においても混濁がいっさい認められないその超高速運指は凄いのひとこと。その次が「中級程度の難易度」と冠される12の小品からの抜粋。ベレゾフスキーの凄いところはパワー全開の筋肉質なヴィルトゥオージティのみならず詩的で繊細なストーリー・テラーとしての才能も持ち合わせていること。こういったアンニュイで中間色的な描き方をする平易で小規模なメロディラインについてもちゃんと語り部として演じ切っている。ここはこのアルバムのもう一つの白眉と個人的には思う。
最後を飾るのは、なんと贅沢なことにアンリ・ドマルケットとの共演。この辺は紙面が許せば詳述したいところではあるが長くなってしまったので短いコメントにとどめる。まずはPf独奏作品からのトランスクリプションで、6つの小品Op.51の最終曲=感傷的なワルツ。昨今ではチェロ版が演奏される機会が増えていて、実は独奏曲だったということは意外に知られていないかも知れない。最後は解説の必要もないくらい有名な弦楽四重奏曲第1番の2楽章、つまりアンダンテ・カンタービレ。ドマルケットのチェロはなんてロマンティックで美しいのであろうか。
ドマルケットとベレゾフスキーは故エンゲラーが取り持った仲ではないかといまだに思っているが、二人の息は非常に合っているし、だいいち、ベレゾフスキーのセンチメンタルでナイーブなタッチの伴奏部がなんと美しいことか。繰り返しになるが彼の強点はPコンなどで見せる屈強なヴィルトゥオージティだけではない。このアルバムはそれが実証されている実に洒落た小品集となっているのだ。ドマルケットとエンゲラーの超名演奏であるデュパルク/旅への誘い、エンゲラーとベレゾフスキーの名演を聴きかえすと彼らのベースとなっているポリシーが良くわかるのだ。
(録音評)
MIRARE MIR200、通常CD。録音は、Pコン#2が2012年9月、ワルシャワでのライヴ、残りが2013年4月、サル・ガヴォー(パリ)とある。音質はPコンとその他で異なるがどちらもいぶし銀のような奥ゆかしいブリリアンスを僅かにまとった高バランスの録音であり、欲張っていないけれども必要十分なレンジ感、音場展開、そして正確で端正な楽器のソノリティが特徴。また、ボリスの強烈な打鍵により張りつめたスタインウェイの音が異例に透明で美しいのだ。Pコンの近年の録音の中でも音質とセンスは最右翼だ。

♪ よい音楽を聴きましょう ♫