J.S Bach: Vn-Con BWV1041 Etc@Viktoria Mullova, Ottavio Dantone/Accademia Bizantina |
http://tower.jp/item/3224259/
J.S. Bach: Concertos
J.S. Bach:
Violin Concerto No. 2 in E major, BWV1042
Violin Concerto in D, BWV1053 arr. harpsichord No.2 in E
Violin Concerto No. 1 in A minor, BWV1041
Concerto for Violin & Harpsichord in C minor, BWV1060 arr.
~from Concerto for Violin & Oboe/Concerto for two harpsichords
Viktoria Mullova (violin)
with Ottavio Dantone (harpsichord)
Accademia Bizantina
J.S.バッハ: ヴァイオリン協奏曲集
ヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調 BWV.1042
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 BWV.1053
=原曲:チェンバロ協奏曲第2番ホ長調
ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 BWV.1041
ヴァイオリンとチェンバロのための協奏曲ハ短調 BWV.1060
=原曲: ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲/2台のチェンバロのための協奏曲
ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン)
オッタヴィオ・ダントーネ(チェンバロ)
アカデミア・ビザンチナ
ムローヴァが従来路線をいったん断ち切る格好でバッハと取り組み始めたのはもうずいぶん前になる。結論的にいうと、このアルバムはその延長線の集大成の域に入っているということと、それと相矛盾するようだがロマン派志向に回帰する兆しを見せている内容となっている。一方、この盤にはバッハのVnコン・アルバムとしては定番のBWV1043が入っていないが、半数をオリジナルとされるVnコン、残りをCemコン由来のリサイクル作品にあてていて交互に配置しているのが特徴。アダプト版のBWV1053と1060を選んだのはダントーネとのコラボレーションであることにも関係するのであろうが、この曲の選択としては個人的にはかなり好みだ。
ムローヴァはバッハを再び始めるに際し、従来曲想および技巧の冷却と時代考証、演奏設計の再構築に長い時間を費やしたのは事実で、実際にその後に弾いた無伴奏の全曲録音の出来栄えは素晴らしかった。そして、それまでのロマン派ヴィルトゥオーゾ路線とは一線を画したこの「再デビュー」は記憶に鮮烈に焼き付いているのだ。禁欲的で瞑想的なメロディーラインと偏りのない対位法表現で埋め尽くされたこの無伴奏はピリオド系の最前線で活躍する演奏家たちも括目したに違いない。しかし、ムローヴァはピリオド・アプローチに帰依したとはひとことも言っていないし、また、これらを聴く限りでは決して自我、というか自身の従来の演奏スタイルを完全に捨て去ってリセットしているわけではないのだ。リセットというよりかはベースラインをピリオド系、とりわけバッハに敢えて置き直したというべきで、そのベースラインに立ったればこそ見える風景から再スタートして自身の表現の独自性・自在性をここから拡げ始めた、という方が表現としては正しいかもしれない。
そういった経緯からこのアルバムを聴くと、これまでムローヴァが辿った自身の演奏スタイルの再構築の過程で得られた幾つかの新しい音楽要素が明確に聞き取れて興味深く、また、演奏作品としての円熟度と奏者の個性という点において頷かざるを得ないものがある。ピリオド系の道を歩み直したことで得られたのは、大仰な曲想、つまりアゴーギクを抑制したことと、あらゆる場面で慢性的に使用してきた性癖としてのヴィブラートを極小化したということだと考える。
かつてのムローヴァに限らず一般的なロマン派Vnの特徴としては持続音には襞の大きなヴィブラートを付けるし、高揚した場面では譜面には現れてこない時間軸的揺らぎを頻繁に付けがち、そしてそれがエキセントリックな音楽表現なり演奏技法として発露されてそれぞれの奏者の個性として特徴づけられ、鑑賞者の感性との確率論的なマッチングを経て世に大きく受け入れられるか否かが決定づけられるといってよい。つまり、かつての巨匠なり名手が聴衆を惹き付けてきたのは偶発的な巡り合わせによって時々の「性癖」が名声を博したか、あるいは流行としての演奏技法を他の「個性的」な先達から学び、世の趨勢を計算したうえで取り入れたことにより聴衆の共感を得て、そして名声を博したらしめたかのどちらかだと思っている。
ピリオド・アプローチは、音楽分野におけるこういった射幸的な要素を排除するのに役立つ方法論だと主張する人たちがいる。しかし、上述のごときの射幸性というのは誰しもが持っているし、それはロマン派アプローチにおいてもピリオド・アプローチにおいても殆ど同じ確率論で語れる世界だと思う。では、射幸性を抜きにして何が聴衆の聴覚に訴え、そして個としてのソリストが名声を得るのか、ということだが、それはその人の歩んできた足跡や経験、感性から総合的に形成された音の作りなのだと思う。話が循環するのだが、結局のところ演奏者と鑑賞者が点接触で触れ合うのか面接触で触れ合うのかの違いであり、接触面積の大きい方が共感度合が大きい、即ち、感性がマッチングするということに帰着する。但し、バッハに代表される比較的古いバロック期の作品の場合には情報量が少ない古典的な譜面だけが演奏の手掛かりであることから、とかくノイズが介在しやすい静的で離散的な音階および和声のシグナルを如何に忠実度を維持して演奏設計するか、というところが世にいうロマン派作品に対するスタンスとは違うところなのだ。
私は恣意的な演奏や解釈を殊更に嫌うふしがあって、そういった個人的特質から言うとバッハを素の姿に近いところで、なおかつ大幅な演出を加えない地味めで控えめな演奏設計を好む傾向にある。では、このムローヴァの解釈はそれに当たっているかというと、実はロマン派アプローチに限りなく近いぎりぎりの線で曲想を膨らませた、いわば、ふくよかな曲面で構成された設計となっているのだ。これこそがバッハで再スタートを切った頃からムローヴァが目指していた到達点であったと確信するのである。結局バッハをピリオド・アプローチで弾くといっても、ではピリオド期にはどういった演奏が行われていたのかは知る由もないし、それは生まれてこのかた行ったこともないパリやマドリードの街の景色を夢の中で勝手に想像する徒労に似ている。目の前に展開されるムローヴァのバッハ演奏は夢想ではなくて現実であり、これが私にとって受け容れられる解釈かどうかが重要なのだ。
では、この演奏が私にとって果たしてどうなのかというと、まったくもって気持ちのよい伸びやかで屈託のない解釈である。堅苦しかったり肩肘を張った力んだピリオド系でもなく、無理に感情を押し殺したアンシェント系あるいはオリジナル主義の演奏でもなく、さりとて絢爛豪華な絵巻のような過度に技巧的なロマン派解釈とも違っている。精緻かというと意外にそうもなく、はめを外す個所も結構あったりして自由で闊達、そしてところにより雑駁であって、全体を通じてポジティブなエナジーが満ちている。
特に、冒頭のBWV1042のアレグロが醸す高揚感たるや比肩する演奏を抽斗から探し出すことが困難なほど高エネルギーを帯びている。では大仰な演出やエキセントリックな仕掛けを用意しているかというとそれは真逆であり、譜面通りにおおよそ元気に淡々と演奏すればこうなるんだ、という強い確信を感じる太い設計だ。次の緩徐楽章は打って変って落ち着きある朗々たる弓捌きであって、物憂さの中に自信と安堵を感じさせるもの。これまた太く朗々とした設計となっているのだ。フィナーレはアレグロと同じ形質のヴィヴィッドな解釈である。そのあとのトラックを逐一特徴を挙げて語っていくこともできるのであるが、それは割愛して最後のBWV1060についてひとこと述べる。これはCemコンの名曲であり、実際のところ撥弦楽器でなければ間延びして聞くに堪えない出来上がりとなるのが落ちであるが、このムローヴァの演奏は例外的にアダプトも演奏解釈も共に傑出しており、CemにはないVnの強点が引き出されているのだ。ポッジャーも同じ曲をOb+Vn版で弾いて良い出来栄えだったが、ムローヴァのこの分厚く純朴なソロ+ダントーネの絶妙に囁くCem+アカデミア・ビザンチナの精緻にして暖色系のこれを聴いてしまうと相対できる同曲録音はちょっとやそっとでは見当たらないのであった。
全トラックに共通していえるのは、作品の時間軸方向の解像度はピリオド系、そしてダイナミックレンジの拡大という命題に対してはロマン派アプローチを準用しているということ。つまり、曲の進行方向に関しては揺らぎを極限まで抑制し、強弱方向については極めて大きなマージンを確保するという点が、この路線における集大成であってロマン派回帰である、と冒頭に述べた所以である。ムローヴァが提示している音楽世界はなかなかに深遠だ。
(録音評)
Onyx ONYX4114、通常CD。録音は2012年12月1~5日、Sala Oriani in Bagnacavallo, Ravenna, Italyとある。音質はこのレーベル特有の滑らかで引っ掛かりのないものであり、高度な調和を聴かせてくれる。但し、ディテールをどこまでも明瞭に抉り出す昨今の三次元CD-DAとは趣が異なっていて、いわゆるオーディオ的な快感はそれほど得られないかもしれない。それでも、ちょっと音量を上げるとアカデミア・ビザンチナの細かな器楽音とダントーネの精妙なチェンバロをそこはかとなく描き切っていることが分かり、実は基本的な音の要素は細大漏らさず捉えているのである。ムローヴァの楽器はJ.B.グァダニーニだろうが、これが太く朗々と、しかもオンマイク気味で捉えられていて爽快感満点である。
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