J.S Bach: Vc Suites #1-3 transcribed for Lute@Hopkinson Smith |
http://tower.jp/item/3210773/
J.S Bach: Lute Suites Nos.1-3
Transcriptions by Hopkinson Smith
Bach, J S:
Cello Suite No. 1 in G major, BWV1007
- transcribed by Hopkinson Smith for the German theorbo
Prelude/Allemande/Courante/Sarabande/Menuets 1 & 2/Gigue
Cello Suite No. 2 in D minor, BWV1008
- transcribed by Hopkinson Smith for the German theorbo
Prelude/Allemande/Courante/Sarabande/Menuets 1 & 2/Gigue
Cello Suite No. 3 in C major, BWV1009
- transcribed by Hopkinson Smith for the German theorbo
Prelude/Allemande/Courante/Sarabande/Menuets 1 & 2/Gigue
Hopkinson Smith (German theorbo Joel van Lennep, Rindge, New Hampshire, 1986)
J.S.バッハ:
組曲第1番ト長調BWV1007
組曲第2番ニ短調BWV1008
組曲第3番ハ長調BWV1009
ホプキンソン・スミス(テオルボ)
初夏には集中してポッジャーのバッハ録音を聴いたが、そこに多く並んでいたのはトランスクリプション版の作品たちだった。バッハは作曲の世界では稀代のエコロジストであった。つまり自身の作品のうち独奏楽器向け楽曲やアンサンブル楽曲を他の独奏楽器や他の器楽編成用に編曲したりとリサイクルを繰り返したということ。バッハの多くの作品は、より抽象化された次元で、かつ特定楽器への適用想定を超越したところで着想されているように思われる。そしてこれらは、18世紀における実践的なマインドと聴感により特定の楽器たちが何度か選定されて適応されてきた、と考えるのが極めて自然だ。例えば、いわゆる公式と言われているバッハのリュート作品には二つの適応例が存在する。即ち、無伴奏Vnパルティータ3番BWV1006はリュート向けBWV1006aとなり、無伴奏Vc組曲5番ハ短調BWV1011はリュート向け5番ト短調BWV995となっている。
他方、リュート奏者たちは何世紀にもわたって彼らの愛用の楽器のための音楽をアダプトさせてきた。ルネサンス期の欧州リュート音楽の大半は、声楽作品からのトランスクリプション(書き換え)で成り立っている。例えば、フランスのバロック期の作家 Robert de Visee(ロバート・デ・ビゼ)は、自身のオーケストラと鍵盤向け作品群をテオルボ向けに書き換えるのに余念がなかったとされる。また、18世紀ドイツの高名なリュート奏者でバッハの知己でもあった Sylvius Weiss(シルヴィウス・ワイス)は、Vcコンをそのままリュートで直接弾いていたと言われている。
これらのリュートへの適応事例は、現代における同様の編曲活動が時代背景的には仕方のない(商業的な意図が込められた)ものだとする言い訳では説明がつかないものだろう。どういうことかというと、昔の演奏家たちはあちこちで聴いた旋律や和声を楽譜なしに自分の楽器と一人対峙して独奏し、これらの作品を次第に彼ら自身が作り出した作品として昇華させて行ったということを意味し、これは現代の音楽評論家(特に時代考証的に研究している人たち)が極めて自然なこととして当時の趨勢を分析して認めているということからも明らか、と言われているようだ(日本国内の特定地域のポピュラーな民謡がその地の人々の血となり肉となって脈々と受け継がれ、彼ら土着の人々自身が作り出してきた音楽であると、あたかも彼らが疑いもなく認知しているという事象に類似していると思料する)。
このアルバムに収録されている組曲1~3番だが、原曲のVc組曲から奏者であるホプキンソン・スミスがテオルボ(低音域方向へと帯域拡張された大型のリュートの一種)向けに編曲したものであり、この活動は上述のとおり、18世紀からリュート奏者たちが続けてきた地道なアダプテーションと類似と思われるのだ。だた、現代的な高性能楽器が容易に手に入る時勢ゆえ、ダイナミックレンジも周波数レンジも上下に拡大されているという点では18世紀と比較するべくもない出来上がりになっていることだろう(当時の生の演奏を聴くことは当然に不可能なため、あくまでも憶測だが)。
さて、ドイツ・テオルボで弾かれる組曲1~3番だが、これはVcによる求道的でどっぷりした重量感を湛えた通常のVcバージョンとは趣が大いに異なる。例えば冒頭の1番だが、元々の旋律が非常に素直でシンプル、そして和声も平坦でちょっと間延びはするけれどもベースが引き締まったト長調の特質を典型的に聴かせてくれている。おまけに天国的・南国的と言うべき独特の伴奏部はバッハが常とする対位法的な書法からは掛け離れた作風なのだ。かなり前からの個人的な憶測であるが、この曲はバッハのオリジナルではないと思う。ヴィヴァルディとも違うが、どこか地中海風、即ち湿潤で温暖な気風が貫かれているのだ。
2番については比較的襞が深くて、これはやはりドイツ風の展開だろうとは思うし、対位法に依拠したカノンが枢要な位置を占めながら進行するので、バッハのオリジナル、或いは地場の同郷出身の作家の手になる作風と思われる。3番は一転して1番の風情が戻るのであるが、これはバッハが書いたものか他人のものかは判然としない。しかし、対位法的要素は少なくて、やはり1番に近いシチュエーションの作品ではなかろうかと思われる。
以上、元々がVcで訥々と語られると紛れもないバッハ作品だと思っていたものがテオルボで弾かれると全く以て別の気風および出自を感じてしまう様に変貌を遂げるのだ。その理由の一つにはこれらの組曲は連続した単音による「歌」が聴く側の耳および脳裏に焼き付いてしまっているところ、撥弦(ピチカート)のみで弾かれる離散的な旋律が、オブリガートないし和声(和音)と相俟ってより天国的な「チャイム」のような音に感じてしまうというのがあげられると思う。要するにリュートやテオルボというのは現代のギターと等価の楽器構造および演奏スタイルであって、VnやVcのための曲あるいは歌唱をギターで主旋律をとるところを想像してみると分かり良いかもしれない。逆に、チェンバロにアダプトされ親しまれているBWV1041、1042、1056などをリュートで弾いてもそれほど違和感はないと思われるのだ。なぜならチェンバロもまた鍵盤の先にあるピックで撥弦する機構を持ち、音を発する原理・特徴としてはギターとほぼ同じ楽器だからだ。
で、このホプキンソン・スミスの演奏だが、目から鱗、いや耳が驚くほどに新鮮に響くバッハであり、これはこれでリュート属の特質を深く理解したうえで上手にアダプトされた優れた編曲&演奏と思う。Vcによる原曲演奏は正当派なのであろうが多少重苦しくていつも聴くにはちょっと・・、という向きには、こういった風情で爪弾かれる組曲もまたおつなものである。肩肘を張らずライトでポップな気分でバッハが紡いだ名旋律を味わうのは決して悪くないのだ。気分が少し浮き浮きするし、なんといってもスミスの繰り出すピチカートの妙技に聴き惚れるのであった。
(録音評)
naïve E 8937、通常CD。録音年月は2012年10月、場所はクールなサウンドと傑出した静粛性を特徴とするMC2:Grenoble(グルノーブル)。機材は、マイク:Neumann M149、DPA 4053、マイクプリとコンソール:DAD AX24、OTARI splitter AES、Benchmark、編集機:Pyramix studioとある。この録音は一聴すると非常に地味で目立たない。録音レベルはかなり低く、通常の聴取ボリュームよりも相当上げないと生活雑音に埋もれそうなくらいだ。しかし、よくよく聴き込むと現行のnaïveが目指している調音と仕上がりとなっていることに気が付く。つまり、漆黒の背景からタイムラグなしにスムーズな吹け上がりでリュートの爪弾きがふわっと浮き出てくるのだ。そして音色は余りに暗く、そして深く沈み込むような低重心なこのサウンドは趣味性が非常に高いと言っておこう。また、たった1挺のテオルボのために広大なMC2を使うのか、との疑問はあるにはあるにはなる。だが器のエアボリュームが大きいことは万事において良いことで、ダイナミックレンジにも周波数レンジにも、そして空間のゆとり感とそこから来るアンビエントの自然さは傑出している。昨今のnaïveが矢継ぎ早にリリースしてくるクラシック音楽メディアの音質/品質に関しては批判の余地は殆どない。
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