2013年 07月 12日
Chopin: Etudes Op.10, Op.25@Jan Lisiecki |
DGの新譜で、天才の誉れ高い若きカナダのピアニスト、ヤン・リシエツキのショパン練習曲の全曲。彼はAMATI主催のProject 3×3にてリーズ・ドゥ・ラ・サールらと一緒に来日公演を行っており、既に日本でもお馴染みだ。

http://tower.jp/item/3227964/
Chopin: Études
Études, Op.10
Études, Op.25
Jan Lisiecki (piano)
ショパン: 練習曲 作品10、25
ヤン・リシエツキ(ピアノ)
リシエツキの演奏は聴いたことがなかった。昨年のリーズのリサイタルと同じシリーズでオペラシティでの来日公演が設定されており、聴きに行こうかとも思っていたが都合がつきそうもなくチケットは買わなかった。そして、なんとDGが専属権を得たとのことでユーロ盤がリリースとなった。彼は1995年生まれというから、若干18歳。この歳でDGと専属契約を締結するとは何とも名誉というか早熟だ。そして現在だが、ユニバーサルのWebサイトに掲載されている彼の経歴によれば高校卒業後、トロントのグレン・グールド音楽学校へ進んだとある。
そしてDGの独奏デビュー盤がこのショパンの練習曲全集とは、あのポリーニがショパン・コンクールで優勝した直後のDGデビューと酷似した風景なのだ。そういったセンセーショナルな話題と共にリシエツキを興行的に巧みに売り出そうとの思惑が先行する録音なのか、それとも名実ともに充実した優秀演奏なのか、是非とも聴いて確かめねばなるまい。
・・・・
封を切った盤に針を降ろした瞬間、得も言われぬ違和感が脳裏に充満する。さらさらと流れて行くOp.10の12曲を俯瞰的に聴いてはいたが、まるで別の曲を聴いている錯覚に囚われる。終わりに差し掛かり違和感がある種の不快感、そして謎めいた疑問へと変化する。弾きこなすのはかなり難しいが、音楽としては素直で衒いのないピュアなOp.10をどう弾けばこういったcuriousな演奏になるのか・・。興味は専らそちらの探求へと向いた。もう一度Op.10の冒頭に戻して聴き始める。まず、現象として明らかに変なのは、右側スピーカーのミッドハイ・ドライバー以上が断線しかかったような状態で、高域が聴こえたり聴こえなかったりを断続的に繰り返すこと。尚、これは装置のコンディションや録音が不適切ということではない。それと、彼特有の癖なのだろうがアゴーギク、というか時間軸上の揺らぎが大きくてあまり脈絡なくテンポが速くなったり遅くなったりすること。
Op.25に入っても基本的にはOp.10の印象をそのまま引きずった状態であり、やはり同種の奇妙さがつきまとう。なんだろう? 昨今は自宅の装置で音楽を聴く時間がほとんど取れない。ということでこの盤をiPodに入れて通勤時にチェックすることにした。そして徐々に分かってきたことがいくつかあった。
・・・・
元々ショパンのこの2つの練習曲集は純粋技巧をストイックに練成するための訓練曲でないのは周知の事実だ。しかし、そうは言いつつショパンは自らの腕力と指の打鍵力の脆弱さには悩みがあって、将来への戒めとしてこの2つの練習曲集=合計24曲を認(したた)めたとされている。個人的にはこれらの殆どを少年期にカバーした経験則上、この練習曲集はショパンが自らの左手のウィークネスを鍛錬し続けるための道標なのだと思っている。24曲のうち実に半数近くは左手の能力を維持するための譜面となっていて、それはスケールやクロマティック、分散和音、アルペジオ、オクターブ奏法、トリル、装飾符など多岐に渡った内容となっているのだ。私は右利きなので、この曲集の左手強化の曲には閉口したものだ。しかし、これらを繰り返し練習することによって左手は右手と殆ど変わらない運動性能を獲得するようになる。そういった点においては個人的にはこの曲集は右利きのピアニストは必ずマスターする必要があると思っているもの。
明確な証左はないが、バッハは左利きであったとの見解がある。なるほど彼の書いた対位法の譜面は右も左もなくて縦横無尽に繰り広げられる分散和音と気まぐれかつ無邪気なスケールは左右おのおので均等かつ重みがない左右シンメトリーを形成している。勿論、歌曲や器楽曲の通奏低音、オルガンの足鍵盤等の例外はあるけれど。バッハの演奏で一世を風靡したと言えばグールドが挙げられる。実はグールドは左利きのピアニストであったというのは有名な話かもしれない。彼の類稀な左手のコントロールによって、凡庸な音に埋もれていたバッハの左手譜面に籠められた別の絵姿が浮き彫りにされたと絶賛する人々は実に多く、確かにグールドのバッハ演奏は際立って異質なヴィヴィッドさを湛えている。これは、バッハもグールドも左利きだったことに符合する結果論だとする世の趨勢を後押しする現象といって構わないだろう。
・・・・
リシエツキのエチュードは、よくよく聴き込むと実は左手が常に強く鳴り響き、それゆえ左手主体に書かれた曲=例えばOp.10の最終曲=俗称・革命のエチュード=などは怒涛の低音性能に立脚した、外形上は安定性の高い演奏に聴こえる。だが、右手パートは概してウィークな弾き方となっているのだ。この曲を例にとると、連続する左手のワイドスケール+分散和音に載ってくる離散的な右手主旋律がいかにもひ弱で心許なく、また右手担当の小節ごとの頭の打鍵(アインザッツ)が全く合っていなくて混変調歪の原因となっている。他の例では、Op.25の終曲は左手にも右手にも高い負荷が掛かる曲だが、左手が元気な状態であるにかかわらず右手は後半になって失速状態で音圧が著しく低下する。という風に、左手は非常に闊達で動きも微細、彼特有のアーティキュレーションが存分に練り込まれているのだが、いかんせん右手が脆弱、そして、ぶきっちょ過ぎて主旋律を正確に刻めていない場面が殆どだ。
では、右手主体の曲ではどうなのかというと、これはスローテンポの曲においては右手パートのウィークネスはそれほど破綻は見せない。しかし、割と速くて微細なトレモロや分散和音をテーマにした曲においては右手の指のコントロールが殆ど喪失しており聴くに耐えない状態となっているものが多い。
文字表現は難しいので原曲の楽譜(Op.10-7ハ長調の頭の12小節分)を示す。この中で青い矢印を付けたラインが一般的なピアニストの解釈(=私もこれと同じに弾く)による主旋律と重要な伴奏部のアクセントである。
(クリックで拡大)
夥しい数の音符が並ぶが、片手練習においてはこの青い矢印だけを追いかけていれば曲としては十分に成立する。対して、赤の矢印がリシエツキが重点を置いて弾いている音符。赤を目で追うとわかると思うが、この曲をこの赤矢印のラインで弾くと低域部だけが耳に残り主旋律がまるで聞こえてこないのだ。この一般的解釈とは真逆な弾き方が冒頭で述べた「まるで別の曲」との所感に繋がるわけである。一聴すると新鮮で斬新なリシエツキの弾き方は、実はグールドがバッハ解釈において逐次実行したやり方に他ならず、短絡的な憶測に留まるけれどこれらはリシエツキがグレン・グールド音楽学校に通って得た成果なのかもしれない。もっと言うと、リシエツキは左利きなのかもしれない。もしそうだとするならば非常に闊達な左手に比し、右手の鍛錬が不足していると言わざるを得ない。
・・・・
という風にいろいろと考えさせられた一枚だった。トータルで評価すると、下手なピアニストではないけれども、この程度の出来栄えであるならば都内の音楽大学の学生や下手すると東洋英和のピアノ科の生徒でももっと巧い人がいると思われる。昨今ではVnにしろVcにしろ、またPfの場合にはさらに顕著なのだが女性ソリストの台頭が目立っている。若手男性ソリストには大いに発奮してほしいところであるけれど、このリシエツキの演奏を聴くとちょっと残念な気持ちになる。まだ18歳と非常に若いリシエツキが今後どういった成長を遂げるのか見守っていきたい。
(録音評)
DG 4791039、通常CD。録音は2013年1月、トロントのKoerner Hall, The Royal Conservatoryとある。録音制作はDGのEmil Berliner Studioではなく、外部のMusicom Production社の担当となる。音質は優秀な方であり、ピアノ録音としては穏健かつスタンダードな出来映えだ。但し、音場が自然に展開するとかピアノ響板が唸っているリアルさだとかには期待はできない。
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♪ よい音楽を聴きましょう ♫

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Chopin: Études
Études, Op.10
Études, Op.25
Jan Lisiecki (piano)
ショパン: 練習曲 作品10、25
ヤン・リシエツキ(ピアノ)
リシエツキの演奏は聴いたことがなかった。昨年のリーズのリサイタルと同じシリーズでオペラシティでの来日公演が設定されており、聴きに行こうかとも思っていたが都合がつきそうもなくチケットは買わなかった。そして、なんとDGが専属権を得たとのことでユーロ盤がリリースとなった。彼は1995年生まれというから、若干18歳。この歳でDGと専属契約を締結するとは何とも名誉というか早熟だ。そして現在だが、ユニバーサルのWebサイトに掲載されている彼の経歴によれば高校卒業後、トロントのグレン・グールド音楽学校へ進んだとある。
そしてDGの独奏デビュー盤がこのショパンの練習曲全集とは、あのポリーニがショパン・コンクールで優勝した直後のDGデビューと酷似した風景なのだ。そういったセンセーショナルな話題と共にリシエツキを興行的に巧みに売り出そうとの思惑が先行する録音なのか、それとも名実ともに充実した優秀演奏なのか、是非とも聴いて確かめねばなるまい。
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封を切った盤に針を降ろした瞬間、得も言われぬ違和感が脳裏に充満する。さらさらと流れて行くOp.10の12曲を俯瞰的に聴いてはいたが、まるで別の曲を聴いている錯覚に囚われる。終わりに差し掛かり違和感がある種の不快感、そして謎めいた疑問へと変化する。弾きこなすのはかなり難しいが、音楽としては素直で衒いのないピュアなOp.10をどう弾けばこういったcuriousな演奏になるのか・・。興味は専らそちらの探求へと向いた。もう一度Op.10の冒頭に戻して聴き始める。まず、現象として明らかに変なのは、右側スピーカーのミッドハイ・ドライバー以上が断線しかかったような状態で、高域が聴こえたり聴こえなかったりを断続的に繰り返すこと。尚、これは装置のコンディションや録音が不適切ということではない。それと、彼特有の癖なのだろうがアゴーギク、というか時間軸上の揺らぎが大きくてあまり脈絡なくテンポが速くなったり遅くなったりすること。
Op.25に入っても基本的にはOp.10の印象をそのまま引きずった状態であり、やはり同種の奇妙さがつきまとう。なんだろう? 昨今は自宅の装置で音楽を聴く時間がほとんど取れない。ということでこの盤をiPodに入れて通勤時にチェックすることにした。そして徐々に分かってきたことがいくつかあった。
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元々ショパンのこの2つの練習曲集は純粋技巧をストイックに練成するための訓練曲でないのは周知の事実だ。しかし、そうは言いつつショパンは自らの腕力と指の打鍵力の脆弱さには悩みがあって、将来への戒めとしてこの2つの練習曲集=合計24曲を認(したた)めたとされている。個人的にはこれらの殆どを少年期にカバーした経験則上、この練習曲集はショパンが自らの左手のウィークネスを鍛錬し続けるための道標なのだと思っている。24曲のうち実に半数近くは左手の能力を維持するための譜面となっていて、それはスケールやクロマティック、分散和音、アルペジオ、オクターブ奏法、トリル、装飾符など多岐に渡った内容となっているのだ。私は右利きなので、この曲集の左手強化の曲には閉口したものだ。しかし、これらを繰り返し練習することによって左手は右手と殆ど変わらない運動性能を獲得するようになる。そういった点においては個人的にはこの曲集は右利きのピアニストは必ずマスターする必要があると思っているもの。
明確な証左はないが、バッハは左利きであったとの見解がある。なるほど彼の書いた対位法の譜面は右も左もなくて縦横無尽に繰り広げられる分散和音と気まぐれかつ無邪気なスケールは左右おのおので均等かつ重みがない左右シンメトリーを形成している。勿論、歌曲や器楽曲の通奏低音、オルガンの足鍵盤等の例外はあるけれど。バッハの演奏で一世を風靡したと言えばグールドが挙げられる。実はグールドは左利きのピアニストであったというのは有名な話かもしれない。彼の類稀な左手のコントロールによって、凡庸な音に埋もれていたバッハの左手譜面に籠められた別の絵姿が浮き彫りにされたと絶賛する人々は実に多く、確かにグールドのバッハ演奏は際立って異質なヴィヴィッドさを湛えている。これは、バッハもグールドも左利きだったことに符合する結果論だとする世の趨勢を後押しする現象といって構わないだろう。
・・・・
リシエツキのエチュードは、よくよく聴き込むと実は左手が常に強く鳴り響き、それゆえ左手主体に書かれた曲=例えばOp.10の最終曲=俗称・革命のエチュード=などは怒涛の低音性能に立脚した、外形上は安定性の高い演奏に聴こえる。だが、右手パートは概してウィークな弾き方となっているのだ。この曲を例にとると、連続する左手のワイドスケール+分散和音に載ってくる離散的な右手主旋律がいかにもひ弱で心許なく、また右手担当の小節ごとの頭の打鍵(アインザッツ)が全く合っていなくて混変調歪の原因となっている。他の例では、Op.25の終曲は左手にも右手にも高い負荷が掛かる曲だが、左手が元気な状態であるにかかわらず右手は後半になって失速状態で音圧が著しく低下する。という風に、左手は非常に闊達で動きも微細、彼特有のアーティキュレーションが存分に練り込まれているのだが、いかんせん右手が脆弱、そして、ぶきっちょ過ぎて主旋律を正確に刻めていない場面が殆どだ。
では、右手主体の曲ではどうなのかというと、これはスローテンポの曲においては右手パートのウィークネスはそれほど破綻は見せない。しかし、割と速くて微細なトレモロや分散和音をテーマにした曲においては右手の指のコントロールが殆ど喪失しており聴くに耐えない状態となっているものが多い。
文字表現は難しいので原曲の楽譜(Op.10-7ハ長調の頭の12小節分)を示す。この中で青い矢印を付けたラインが一般的なピアニストの解釈(=私もこれと同じに弾く)による主旋律と重要な伴奏部のアクセントである。(クリックで拡大)
夥しい数の音符が並ぶが、片手練習においてはこの青い矢印だけを追いかけていれば曲としては十分に成立する。対して、赤の矢印がリシエツキが重点を置いて弾いている音符。赤を目で追うとわかると思うが、この曲をこの赤矢印のラインで弾くと低域部だけが耳に残り主旋律がまるで聞こえてこないのだ。この一般的解釈とは真逆な弾き方が冒頭で述べた「まるで別の曲」との所感に繋がるわけである。一聴すると新鮮で斬新なリシエツキの弾き方は、実はグールドがバッハ解釈において逐次実行したやり方に他ならず、短絡的な憶測に留まるけれどこれらはリシエツキがグレン・グールド音楽学校に通って得た成果なのかもしれない。もっと言うと、リシエツキは左利きなのかもしれない。もしそうだとするならば非常に闊達な左手に比し、右手の鍛錬が不足していると言わざるを得ない。
・・・・
という風にいろいろと考えさせられた一枚だった。トータルで評価すると、下手なピアニストではないけれども、この程度の出来栄えであるならば都内の音楽大学の学生や下手すると東洋英和のピアノ科の生徒でももっと巧い人がいると思われる。昨今ではVnにしろVcにしろ、またPfの場合にはさらに顕著なのだが女性ソリストの台頭が目立っている。若手男性ソリストには大いに発奮してほしいところであるけれど、このリシエツキの演奏を聴くとちょっと残念な気持ちになる。まだ18歳と非常に若いリシエツキが今後どういった成長を遂げるのか見守っていきたい。
(録音評)
DG 4791039、通常CD。録音は2013年1月、トロントのKoerner Hall, The Royal Conservatoryとある。録音制作はDGのEmil Berliner Studioではなく、外部のMusicom Production社の担当となる。音質は優秀な方であり、ピアノ録音としては穏健かつスタンダードな出来映えだ。但し、音場が自然に展開するとかピアノ響板が唸っているリアルさだとかには期待はできない。
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by primex64
| 2013-07-12 01:26
| Solo - Pf
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