2013年 04月 18日
Mamoru Samuragochi: Sym#1 Hiroshima@N.Otomo / Tokyo SO. |
このCDは昨年の秋口にタワレコの店頭の試聴機で聴いて買い、それ以来、寸暇を惜しんでずっと断続的に聴き続けているもの。なぜかその後、このCDおよび佐村河内は静かなブームを作っているようであり、MusicArenaで書くかどうか逡巡しているうちに色々あって月日が過ぎ去った。

http://tower.jp/item/2890658
Mamoru Samuragochi: Symphony No.1 "HIROSHIMA"
Tokyo Symphony Orchestra, Naoto Otomo(Cond)
佐村河内 守: 交響曲第1番 HIROSHIMA
大友直人(指揮) 、東京交響楽団
これを買った頃の父親はまだ故郷の病院に入院中で、時おり富山に見舞いに訪れたときには意識が明瞭で、ちゃんと会話が成り立っていたのを思い出す。しかし、日に日に病状は悪化し意識レベルが後退していった。そして見舞った後にこの曲を聴きつつ、近付きつつある父との別離をどこかで覚悟していた部分があったのかもしれない。訃報が届いたあと駆けつけた時には心に全く余裕がなく、iPodもCDメディアも忘れて持参しなかった。虚ろな精神状態で諸事をこなした後、疲れ果てて夜伽の布団に入ってからこの曲の1楽章主題、2楽章の主題および展開部、そして3楽章第2主題のオブリガートが脳裏に静かに響いてくるのであった。
私の場合にはなぜか幼少期から絶対音感があって、なおかつ徹底的に繰り返したソルフェージュがいまだ効いているためなのか、デジタル・シンセサイズド・オシレータで作られたようなシュアでピュアな音と共に五線譜上のドレミファ・・の旋律と和声が脳裏にリフレインされる。珠算の熟達者が暗算を行う際、高速で珠が動く巨大な算盤が脳裏に出現するというのと似ているかもしれない。勿論、佐村河内のこの曲のスコアは手元にはなくて読んだこともないが、聴いているとだいたい器楽構成がわかってくるし、今まで数か月も聴いてきているのでおおかたのパートはほぼ暗譜できている。そういったこともあり、寝付かれないときには”仮想のプレイボタン”さえ押せば、眠りに落ちるまで勝手にリピートして頭内でこの曲が演奏される。
家族、とりわけ親との別れは悲しく寂しいものだが、現代の人の死に際して遺族はほとんど感傷に浸れないくらい忙殺される。そんななか、この佐村河内の作品がある種の慰めになっていたのは確かだと思う。そうこうするうち、つい先日だが帰宅してCELL REGZAのタイムシフト・マシンを巡回していたらNHKスペシャルで佐村河内を取り上げていてびっくりした。東日本大震災にひっかけて作ったようなストーリーが陳腐ではあったが佐村河内のリアルの姿が映し出されていて興味深く画面に見入った。そういった宣伝効果があってかどうかわからないが、東横線のドアにこのCDの広告が「現代のベートーヴェン」との触れ込みで貼り付けてあったりと、ちょっとはセールスが捗っているようだ。
閑話休題。この作品については前述のとおり露出も増えてきているので出自も詳細もあまり書かない(興味のある各自は検索等で調べてほしい)。佐村河内およびこの作品を一言でいうと、現代のベートーヴェンではなく、日本版マーラーだ。後天性の聾であるという共通点、また真摯で求道的でありながらちょっと粗野な展開を見せるという共通点からキャッチコピーをつければベートーヴェンとなるのかもしれない。しかし、いかんせん作風も規模も違いすぎるのだ。シェーンベルクやアルバンベルクといった新ウィーン楽派、わが国では武満といった、いわゆる現代音楽の世界でないオーソドックスなロマン派交響曲が現代のこの日本で書かれたという事実自体が驚愕であり、また出来栄えの点からいっても称賛に値する作品だ。旋律はマーラーほどの華のあるパートは少ない。また、基本和声は闇に似たストレートな短調の連続なので地味である。最終楽章の展開部からコーダまでを例外とすれば・・。
ある意味では没個性ともいえる旋律・和声ではあるけれども、特筆すべきはこれらに対するオーケストレーションの多彩さ、巧みさだ。この重層感のある、そして隙がなくて美しい組み立て方法はラヴェルやバルトークの管弦楽曲に通じるものがある。金管隊の時間差攻撃的なフィーチャーや打楽器隊の効果的な起用といった、技法的に似ている過去の作品に例えるとするならばペトルーシュカ、オケ編曲版の展覧会の絵、あるいはオケコン、ミラクル・マンダリン辺りが挙げられようか。夥しい音の数とそのコントロール、多元性に富んだ鮮やかかつ艶やかな塗り重ね方が傑出しており、こう言った優れたオーケストラ作品が純国産として聴ける日が来ようとは想像だにしていなかった。
但し、全3楽章形式のこの長大な交響曲は重厚にして暗鬱なテーマを内包する作品であって、万人に薦めることはできないもの。とにもかくにも譜面が長いということ、旋律も和声も音の一つ一つが吟味し尽くされたうえで相当な重量を持っているということ、そしてなんといっても終楽章の展開が静謐かつ劇的であって、深く沈み込むような、如何ともしがたい沈痛な感動が得られるということだけを述べておこう。
この作品の音楽的評価はここ数年である方向に定まるとは思われない。寧ろ、我々がいなくなった時代のなかで後世の人々がこの作品を聴いているのか、あるいは聴いていないのか、また聴いているとすればどういった心持、どういった価値観で聴いているのか、ということが真の評価だと思うのだ。
(録音評)
DENON COCQ84901(日本コロムビア)、通常CD。録音はちょっと古くて2011年4月11-12日(3.11の一ヵ月後)、場所は パルテノン多摩とある。この作品の作曲年代は2003年とされているが、その源流はよくわからない。断片的(例えば1と3楽章、または3楽章だけとか)ではあるけれども国内の地方/在京オケによってここ3~4年、断続的に演奏されてきていた(2008年の初演も1と3楽章だった模様)。そして、このCDが全楽章を収めた世界初録音ということになるらしい。今までCDリリースされてこなかったのが不思議なくらいで、もっと早くに、例えば震災前にリリースしていれば佐村河内に対する世の評価は今とは違ったものになっていたかもしれない。
音質だが、DENONらしい地味で目立たないものだ。音楽展開が暗く憂鬱なものであり、更にこの録音の音質傾向が同様に暗鬱であり、従ってそれらの相乗効果からか、逃れようのない絶望的な暗い感覚に陥るのであった。音のクォリティという点においては一定レベル以上を確保しているけれども傑出した広い音場空間が作られるだとか、括目すべきワイドレンジであるだとか、立ち登る香しいフレーバーだとか、およそそういった特徴もセンスも有していないCDで、芸術作品を収めた音楽CDというよりは、単に電気音響的に音を記録した媒体といった風情。つまり、良くも悪くもDENON PCMの典型的な音作り(というか音を作らないのが音作りのポリシー)なのである。もうちょっと高いプレゼンスを持った欧州オケ+仏系高性能レーベルに録らせるとまるで違った出来上がりになると思うのだが。
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http://tower.jp/item/2890658
Mamoru Samuragochi: Symphony No.1 "HIROSHIMA"
Tokyo Symphony Orchestra, Naoto Otomo(Cond)
佐村河内 守: 交響曲第1番 HIROSHIMA
大友直人(指揮) 、東京交響楽団
これを買った頃の父親はまだ故郷の病院に入院中で、時おり富山に見舞いに訪れたときには意識が明瞭で、ちゃんと会話が成り立っていたのを思い出す。しかし、日に日に病状は悪化し意識レベルが後退していった。そして見舞った後にこの曲を聴きつつ、近付きつつある父との別離をどこかで覚悟していた部分があったのかもしれない。訃報が届いたあと駆けつけた時には心に全く余裕がなく、iPodもCDメディアも忘れて持参しなかった。虚ろな精神状態で諸事をこなした後、疲れ果てて夜伽の布団に入ってからこの曲の1楽章主題、2楽章の主題および展開部、そして3楽章第2主題のオブリガートが脳裏に静かに響いてくるのであった。
私の場合にはなぜか幼少期から絶対音感があって、なおかつ徹底的に繰り返したソルフェージュがいまだ効いているためなのか、デジタル・シンセサイズド・オシレータで作られたようなシュアでピュアな音と共に五線譜上のドレミファ・・の旋律と和声が脳裏にリフレインされる。珠算の熟達者が暗算を行う際、高速で珠が動く巨大な算盤が脳裏に出現するというのと似ているかもしれない。勿論、佐村河内のこの曲のスコアは手元にはなくて読んだこともないが、聴いているとだいたい器楽構成がわかってくるし、今まで数か月も聴いてきているのでおおかたのパートはほぼ暗譜できている。そういったこともあり、寝付かれないときには”仮想のプレイボタン”さえ押せば、眠りに落ちるまで勝手にリピートして頭内でこの曲が演奏される。
家族、とりわけ親との別れは悲しく寂しいものだが、現代の人の死に際して遺族はほとんど感傷に浸れないくらい忙殺される。そんななか、この佐村河内の作品がある種の慰めになっていたのは確かだと思う。そうこうするうち、つい先日だが帰宅してCELL REGZAのタイムシフト・マシンを巡回していたらNHKスペシャルで佐村河内を取り上げていてびっくりした。東日本大震災にひっかけて作ったようなストーリーが陳腐ではあったが佐村河内のリアルの姿が映し出されていて興味深く画面に見入った。そういった宣伝効果があってかどうかわからないが、東横線のドアにこのCDの広告が「現代のベートーヴェン」との触れ込みで貼り付けてあったりと、ちょっとはセールスが捗っているようだ。
閑話休題。この作品については前述のとおり露出も増えてきているので出自も詳細もあまり書かない(興味のある各自は検索等で調べてほしい)。佐村河内およびこの作品を一言でいうと、現代のベートーヴェンではなく、日本版マーラーだ。後天性の聾であるという共通点、また真摯で求道的でありながらちょっと粗野な展開を見せるという共通点からキャッチコピーをつければベートーヴェンとなるのかもしれない。しかし、いかんせん作風も規模も違いすぎるのだ。シェーンベルクやアルバンベルクといった新ウィーン楽派、わが国では武満といった、いわゆる現代音楽の世界でないオーソドックスなロマン派交響曲が現代のこの日本で書かれたという事実自体が驚愕であり、また出来栄えの点からいっても称賛に値する作品だ。旋律はマーラーほどの華のあるパートは少ない。また、基本和声は闇に似たストレートな短調の連続なので地味である。最終楽章の展開部からコーダまでを例外とすれば・・。
ある意味では没個性ともいえる旋律・和声ではあるけれども、特筆すべきはこれらに対するオーケストレーションの多彩さ、巧みさだ。この重層感のある、そして隙がなくて美しい組み立て方法はラヴェルやバルトークの管弦楽曲に通じるものがある。金管隊の時間差攻撃的なフィーチャーや打楽器隊の効果的な起用といった、技法的に似ている過去の作品に例えるとするならばペトルーシュカ、オケ編曲版の展覧会の絵、あるいはオケコン、ミラクル・マンダリン辺りが挙げられようか。夥しい音の数とそのコントロール、多元性に富んだ鮮やかかつ艶やかな塗り重ね方が傑出しており、こう言った優れたオーケストラ作品が純国産として聴ける日が来ようとは想像だにしていなかった。
但し、全3楽章形式のこの長大な交響曲は重厚にして暗鬱なテーマを内包する作品であって、万人に薦めることはできないもの。とにもかくにも譜面が長いということ、旋律も和声も音の一つ一つが吟味し尽くされたうえで相当な重量を持っているということ、そしてなんといっても終楽章の展開が静謐かつ劇的であって、深く沈み込むような、如何ともしがたい沈痛な感動が得られるということだけを述べておこう。
この作品の音楽的評価はここ数年である方向に定まるとは思われない。寧ろ、我々がいなくなった時代のなかで後世の人々がこの作品を聴いているのか、あるいは聴いていないのか、また聴いているとすればどういった心持、どういった価値観で聴いているのか、ということが真の評価だと思うのだ。
(録音評)
DENON COCQ84901(日本コロムビア)、通常CD。録音はちょっと古くて2011年4月11-12日(3.11の一ヵ月後)、場所は パルテノン多摩とある。この作品の作曲年代は2003年とされているが、その源流はよくわからない。断片的(例えば1と3楽章、または3楽章だけとか)ではあるけれども国内の地方/在京オケによってここ3~4年、断続的に演奏されてきていた(2008年の初演も1と3楽章だった模様)。そして、このCDが全楽章を収めた世界初録音ということになるらしい。今までCDリリースされてこなかったのが不思議なくらいで、もっと早くに、例えば震災前にリリースしていれば佐村河内に対する世の評価は今とは違ったものになっていたかもしれない。
音質だが、DENONらしい地味で目立たないものだ。音楽展開が暗く憂鬱なものであり、更にこの録音の音質傾向が同様に暗鬱であり、従ってそれらの相乗効果からか、逃れようのない絶望的な暗い感覚に陥るのであった。音のクォリティという点においては一定レベル以上を確保しているけれども傑出した広い音場空間が作られるだとか、括目すべきワイドレンジであるだとか、立ち登る香しいフレーバーだとか、およそそういった特徴もセンスも有していないCDで、芸術作品を収めた音楽CDというよりは、単に電気音響的に音を記録した媒体といった風情。つまり、良くも悪くもDENON PCMの典型的な音作り(というか音を作らないのが音作りのポリシー)なのである。もうちょっと高いプレゼンスを持った欧州オケ+仏系高性能レーベルに録らせるとまるで違った出来上がりになると思うのだが。

♪ よい音楽を聴きましょう ♫
by primex64
| 2013-04-18 23:38
| Symphony
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