Bach & Schubert: Something Almost Being Said@Simone Dinnerstein |
http://tower.jp/item/3034107/
Simone Dinnerstein: Something Almost Being Said
Music of Bach and Schubert
J.S.Bach: Partita No.2 in C minor, BWV826
Schubert: 4 Impromptus, D899
J.S.Bach: Partita No.1 in B flat major, BWV825
Simone Dinnerstein (Pf)
1. バッハ:パルティータ 第2番 ハ短調 BWV826
2. シューベルト:4つの即興曲 D.899/作品90
3. バッハ:パルティータ 第1番 変ロ長調 BWV825
シモーヌ・ディナースタイン(ピアノ)
因みに、ソニー移籍デビュー盤である「A Strange Beauty」と名付けられたバッハの作品集は、協奏曲も含んだテーマアルバムであり、欧米ではかなり良好なセールスを示し、アメリカではビルボードのクラシック部門で首位を飾ったとのこと。今回のこれもテーマアルバムだが、バッハだけでなくシューベルトの作品を含む独奏アルバムである。
ディナースタインは、バッハとシューベルトの音楽はある種の特徴を共有していると信じているそうで、ライナーには以下の記述がある。
「彼らの無声の音楽はパワフルな話法と音声の要素を持っている。バッハおよびシューベルトの旋律ラインはとても流暢で表現豊か、そして微細な抑揚を持つが、これはまさにある瞬間から突然肉声で話し始めるのではないかと思われるほど。それは、あたかも、言葉が発せられているかのごとくに響いてくるのだ。」
今回のアルバム・タイトルはフィリップ・ラーキンの詩「木」にある一節・・・The tress are coming into leaf/Like something almost being said. 木々は葉になる/まるで言葉が喋られているかのように・・・からインスパイアされている。ディナースタインはバッハのパルティータ#1~#2、シューベルトの4つの即興曲という器楽作品に含まれる固有のボーカル=歌曲の要素を抽出し、彼女固有の内なる声で再構築して表現していると思われる。なお、4つの即興曲をパルティータで挟んだ理由は、これらの作品の作曲年月には100年を超える隔たりがあるにも拘わらず類似した共通点を持つことを強調したかったためだそうだ。
例によって現代ピアノで弾かれるバッハのクラヴィーア曲となるこの演奏だが、ディナースタインの過去の演奏スタイル/録音と大きな差異があるわけではない。なるほど現代ピアノの特質を活かした幅の広い表現だし、彼女が敬愛しているというグールドの影響も感じられるところ。パルティータ2番を最初に持ってきていて、これは抑揚、めりはりが効いたヴィヴィッドな演奏だ。即ち、ディナースタインのベルリン・コンサートなどでお馴染みの、速いパッセージはより速く、遅いパッセージは情感豊かにゆっくりと・・、というパターンだ。特に速い部分に関しては慎重に律された小刻みで正確なスケールとリズム感が秀逸であり、対位法に特有のミニマル的なトランス状態が味わえる。うって変わって遅速部に関しては主旋律を見失う寸前まで崩された過度なテヌートが特徴であり、これはゴルトベルクのラルゴ曲から演繹された曲想だと思われる。極端な速度差と情感の籠め方の対比は好みの別れるところであろう。
最後のパートとなるパルティータ1番は予測に反して全編ストイック、かつエネルギー感の低い解釈であり、なんらかのメッセージ性が感じられる一種独特な弾き方だ。もうちょっと元気があってよい気がするがディナースタインはかなり抑制的、いや瞑想的にこの曲を捉えており、音符と音符の間の空白がかなり広いのだ。この曲をこのような低いテンションで弾く方法があったのかと逆に新たな発見をさせられたという思いだ。もしかするとパルティータ1番→2番→4つの即興曲の順で録り、製品化する時にこの順序に並べ替えたのかも知れない。そう思って聴いてみると#1では必要以上に周到かつ丁寧な導入を図り、そして#2に転じてから明媚で闊達に展開させるというのは一般にはよくやる方法だ。
真ん中に配しているシューベルトの4つの即興曲D899は殆ど同じ時期に書かれた長編のD935と共に、短かった彼の生涯を縮図のように綴った傑作中の傑作である。最晩年の蝕まれた健康状態も反映してか深い襞と暗鬱なベースラインに、若々しい煌めきと生への希望、なんとか過ごす日々への慈しみといったあらゆる感情が走馬燈のように去来する深く重厚でシンボリックな作品。ここでのディナースタインは肩肘が張っていてある意味単調、そして繊細さには少し欠ける演奏で、はっきりいって巧くはない。それでも縦横なクロマティックで構成される2番などは唸らせられるものがある一方、ディナースタインが肉声とも歌曲とも形容したシューベルトの書いた器楽曲の中でも神髄と言える3番は、ちょっとダルで一本調子であって歌声を連想させられるような演奏ではない。
私自身が若年期に取り組んだことのある、かつ聴く側としても永年親しんてきた曲であり、また、個人的にはこの曲に鎮魂の意を込め、ある出来事に対する追悼期間を過ごしているため(=可能なら詳細は後日に語ろうと思う)、かように辛い点数を付けてしまう。一方、世の中的に見ればこれはこれで暖色で太く実直な解釈であり、ディナースタインのレパートリーが今後バッハから先に拡がって行くことを期待させられる意義ある演奏かも知れない。Like something almost being saidは分かるとしても、真ん中に挟まれているD899と両端のパルティータとではテーマ性と意味合いがまるで異なるので、この取り合わせは個人的には及第点は付けられない。しかし、メランコリックでロマンティックなシューベルトのこの作品とストイックで硬質なパルティータを連関させようとする、ある意味でチャレンジャブルなこの録音における試みは世の支持を大いに受ける予感がする。
(録音評)
SONY 88697998242、通常CD。録音は2011年8月10~15日、場所は The American Academy of Arts and Letters, New York とある。音質は重厚で暖かくレンジ感は狭め、だが、よく聴き込むとファンダメンタル帯域はフラット、アンビエント成分も適切に含まれており、録音品質自体は優秀だ。一般に広く受容されるであろう音楽性と芸術性を狙った企画、及びセピア色を思わされるシックで長時間聴取に耐えうる大人の音質を備え、例えばグラミー賞も狙える位置に着けている真摯で香り高いテーマアルバムだと評価する。
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