Shostakovich: Vn-Con #1,2@Sayaka Shoji, Dmitri Liss/Ural PO. |

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Shostakovich:
Violin Concerto No.1 in A minor, Op.99
Violin Concerto No.2 in C sharp minor, Op.129
Sayaka Shoji(Vn)
Ural Philharmonic Orchestra, Dmitri Liss
ショスタコーヴィチ:
・ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 Op.77
・ヴァイオリン協奏曲第2番嬰ハ短調 Op.129
庄司紗矢香(ヴァイオリン)
ウラル・フィルハーモニー管弦楽団、ドミトリー・リス(指揮)
このCDに関し、HMVのレビューの中に、トリプル・アクセルを飛んでも金メダルがとれない浅田真央、という喩えが載っていた。なんのことか今ひとつピンと来ないままこのCDに針を降ろした。最初のVnコン1番を聴き始めて暫く経って、なるほど、と膝を打った。リストの愛の夢のオーケストレーション版に合わせて頑張って演技する浅田の姿が脳裏にフラッシュバックする。一つ一つのエレメントの完成度はかなり高いのであるが、トータルして俯瞰してみると、これはリストの愛の夢とはちょっと違う。建物にたとえるなら、西洋建築の設計図面を日本建築様式で施工するようなものであって、どこかちぐはぐな印象が拭えないのだ。巧(たくみ)の技が随所に散りばめられているのは分かるのであるが、根底に一貫して流れる設計ポリシーが表に現れていない、というべきだろうか。
Vnコン1番の1楽章はモデラートの夜想曲(Nocturne - Moderato)で、いわゆる緩徐楽章から始まる構成となっており、これは非常に変わっている。2楽章がスケルツォ( Scherzo - Allegro)で「急」、3楽章がパッサカリア(Passacaglia - Andante)で、どちらかというと「緩」、4楽章がブルレスケ( Burlesque - Allegro con brio)で「急」という一風変わった前衛的な形式、というか形式に拘らない自由な構成となっている。
庄司のここでの解釈はさらさらとしていて気持ちは良いのであるが、理不尽な民族弾圧とスターリニズムの蔓延、恐怖政治から来る劣悪な社会情勢、そして自我をも崩壊させられそうになるほどの音楽論争の苦しみから滲み出たデモーニッシュでどろどろした狂気が表現できていないのだ。毒々しく棘のある、例えば3楽章のユダヤ風ないしハンガリー風のパッサカリア変奏の積み重ね方、そしてその最後に位置する超絶的で長大なカデンツァに至ってもそのさらさら感が災いしてか官能に訴えてくるところが丸でないのだ。カデンツァは技巧上も解釈上も非常に難しくてどのVnソリストも苦心惨憺する場面であるが、庄司の場合、テクニック的には申し分ない巧さがある。しかし、このカデンツァを含むこれら負の怨念が充満したパートの不協和音があまりに淡泊、そしてエナジー感が欠落した鳴らしかたとなっている。一方、時折現れる穏便で節度あるモデレートな旋律の捉え方、その美しさには耳を奪われるのであるが。全編で瞑想的かつ静謐な解釈に終始しているのが残念で、もうちょっと内面から深く弾き込んで欲しかった。適切な例えではないかも知れないが、ここからテクニックを削いでしまうと、諏訪内の演奏と殆ど同レベルという気がする。
一方、ショスタコ晩年の作となるVnコン2番の出来映えは1番とうって変わって堂々たる弾きっぷりで素晴らしい。庄司からしてみると1番よりかは2番の方が理解/咀嚼が遙かに容易だったのかも知れない。この嬰ハ短調は、響きとしてはちょっと変わっていてマラ5などの不安定感/浮遊感に通じるところがあって面白い作りをしている。1楽章は出現する旋律も和声も自身の5番シンフォニーの焼き直しと見られ、内容的にはそのミニチュア版的展開を示す。庄司のここの弾き方は、カデンツァも含めドライブ感に満ち溢れていて秀逸。2楽章は緩徐楽章でアダージオ指定されていて、変形三部の真ん中にまたもやちょっとした規模のカデンツァが挿入されている。このカデンツァは独創的な伴奏付きだが、庄司はバックとの溶け込みを意識したダイアローグを展開しており、なかなかに闊達でよい。3楽章はアダージオ→アレグロの速度変更がある変形ロンド形式だ。5番シンフォニーの再現部やその他多くの作品(他人のも含み)のコラージュがときおり瞬間的に去来するというショスタコ得意の締めかただ。
ドミトリー・リス率いるウラル・フィルだが、超高性能とは言えないまでも一本筋の通ったビームを発するヴィヴィッドなソノリティを聴かせてくれる楽団。リスだが、前衛作品の解釈はかなり手慣れたものがあると見受けられ、この演奏においても庄司のウィークポイントを確実にカバーしている。
(録音評)
MIRARE MIR166、通常CD。録音は2011年8月、場所はロシア、エカテリンブルク・フィルハーモニーとある。日本語解説付きで、ジャケ写真は篠山紀信撮影とのこと。音質は昨今の例に漏れず、通常CD-DAによる三次元立体録音である。音場空間の恐ろしいほどの透明度と、ピンポイントで結像するソリスト/オケの各パート、そして野放図なまでに伸びるショスタコ得意の極低音パーカッション/コンバスが前後左右から大波となってリスナーへと押し寄せる臨場感は凄いものがある。このホールは現代的なアンビエントであって過度な残響も、甘ったるい固有共振もなく無駄を一切削ぎ落とした音だ。もうちょっと芸術的で音楽的な響きであっても良いか、との誹りは受けるかも知れないが、オーディオ的に見れば地味系の超Hi-Fi路線であって、個人的な嗜好性からいえば文句なし。但し、世の中的なオーディオ・ファイルは強い輪郭強調とアコースティックな実在感が欲しいと感じるところであろう。蛇足だが、一般的な音楽専用ホールの音響は、このCDに収められている空間成分のポートフォリオに近いものであって、輪郭強調や過度な残響成分は殆ど含まれないのが通常なのだが。

♪ よい音楽を聴きましょう ♫

コメントありがとうございます。昼間に返事が返せず済みません・・。
庄司については前回のバッハ/マックス・レーガーに続き、なんだか厳しいコメントとなってしまって、結果論的に反・庄司? と思われてしまうかも知れません。しかし実はそんなことは全くなくて逆かも知れません。期待はかなりあって、彼女には更にいくつかの山と谷と峠を乗り越えて頂上を目指して欲しいと思っている心理がこんな手厳しい物言いになっているのかも知れないと感じています。
前回もそうだったんですが、チャレンジング・メニューとそうじゃなくて確信犯的に自信があるメニューとを敢えて並べてきている風なんですね・・。今回は1番がチャレンジで2番が円熟の境地ってことみたいです。
またお越し下さいませ。こちらからもお伺いしますので!