2011年 03月 16日
地震 そして帰宅難民 - Part 5 |
スモーキング・ブレークを済ませ、再び南下を始めた。大綱橋を渡ってすぐ次の信号は大曽根のT字路となる。左の海側へ行くと鶴見で、確かに鶴見方面へ向かう大群が出来ている。そして私たち横浜組は直進。その道はちょっとだけ右へカーブを切る。すると、前方左手に灯りが見えてくる。街路灯も明るくて、そしてコンビニと思われる照明が明るく灯る店舗もずっと先まで見渡せる。歩を進めると進行方向の反対側に三菱自動車のディーラーがあって煌々と灯りをつけたまま営業は終了ということらしい。自動車屋の店舗はエネルギーを滅茶苦茶浪費していると思い知る。これだけの電力を消費し続けて、さらに石油を浪費する商品を売るとは実に勿体なく残念な感じだ。
大曽根の向こうの大倉山からは停電が無くて、綱島街道はとても明るく活気に満ちた道路に思われてくる。さっきの暗い道とは隔てるものなく連続する同じ道なのに照明があると無いとでは段違いである。坂を下って港北区役所のすぐ手前、右手には大倉山駅へ通じる道が望めるが、ちゃんと灯りがついていて商店街の風情が見受けられる。ここはとても普通、通常通りの景色だ。しかし、車道は相変わらずの渋滞で、考えてみると都内の中原街道からここまで自分を追い越して先に進んだ車はいないのであった。大豆戸(まめど)の交差点は歩行者は全て歩道橋を渡る事となるが、歩道橋の上から北を望むと、先ほど綱島からこの道路に合流した市営59系統のバスが200メートルほど後ろの坂道をズルズルと下っている。赤バスという言葉の由来通り、行き先の「横浜駅西口」が赤いバックライトで目立っている。
ここで、胸ポケットに入れてある携帯電話がブルブルと振動する。コートの前ボタンを一個外して隙間から取り出して通話に出ると、なんと富山の母親からの連絡であった。携帯電話はこちらから家族に対して何度も試みたものの全く通じず、そしてこちらへは全く掛かってこないという状況であった。しかし、訊いてみると固定電話からは掛かりやすいようで、テレビのニュースで映し出された丸子橋の風景を見て「あいつは今どうしているのだろう?」と心配になったのでかけてみたらそのままかかったのだという。もう20キロ以上歩いていて、そろそろ自宅が近いというと電話の向こうは絶句していた。田舎は車生活ゆえ、普段から1キロも歩かない生活なのだが、こちらは日々の暮らしは基本は徒歩(というか足手纏いの自家用車は持たない方がある意味賢いと思う。勿論、車を運転するのが趣味であるという人の場合は前述を妨げることは出来ないが・・)。だから心配は要らない、と言う話をし、家に着いたら改めて連絡するから一旦電話を切ると告げて更に先を急ぐ。
足はさっきのブレークで半分くらい復活したので結構軽い感じだ。菊名の手前にサミットストアと菊名の郵便局があるが、どちらも煌々と灯りが点いていて人の気配もする。なんだか生きた心地がする。結局、川崎市は真っ暗闇の中を突っ切った格好となったが横浜市はだいたい大丈夫のようだ。綱島街道を直進して遂に菊名駅にぶつかった。駅の下のバス停とタクシープールには人が溢れかえっていて大変な混雑だ。バスを待っている先頭の人に、電車はどうなんですか? と訊いたら、まだ1~2時間は無理だろうな、との返答。階段の上の東急菊名駅ではメガホンで復旧の目処はまだ立たない、とのアナウンスが繰り返されている。
菊名駅前からは旧綱島街道へと入る。新しい綱島街道は急勾配とカーブが続く山道であり、そして自宅へは遠回りをしている格好だからだ。「旧綱」は平地をずっと進み、東横線の踏切を越えて更に平坦に白楽・六角橋方面へと通じる谷底の細い道ながら妙蓮寺駅前を掠めて自宅へ行くには最短距離だ。旧綱に入ると東京から神奈川へ向かう人はぐっと減り、気がつくと自分一人となっている。反対方向からは横浜から港北区、またその向こうの都内を目指す人々が黙々と歩いていて狭い道が溢れかえっている。そうこうするうちに菊名橋交差点に到着。ここでも帰宅難民がいっぱい歩いていて、この交差点を左右に走る水道道も帰宅難民の通り道だったらしい。
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大曽根の向こうの大倉山からは停電が無くて、綱島街道はとても明るく活気に満ちた道路に思われてくる。さっきの暗い道とは隔てるものなく連続する同じ道なのに照明があると無いとでは段違いである。坂を下って港北区役所のすぐ手前、右手には大倉山駅へ通じる道が望めるが、ちゃんと灯りがついていて商店街の風情が見受けられる。ここはとても普通、通常通りの景色だ。しかし、車道は相変わらずの渋滞で、考えてみると都内の中原街道からここまで自分を追い越して先に進んだ車はいないのであった。大豆戸(まめど)の交差点は歩行者は全て歩道橋を渡る事となるが、歩道橋の上から北を望むと、先ほど綱島からこの道路に合流した市営59系統のバスが200メートルほど後ろの坂道をズルズルと下っている。赤バスという言葉の由来通り、行き先の「横浜駅西口」が赤いバックライトで目立っている。
ここで、胸ポケットに入れてある携帯電話がブルブルと振動する。コートの前ボタンを一個外して隙間から取り出して通話に出ると、なんと富山の母親からの連絡であった。携帯電話はこちらから家族に対して何度も試みたものの全く通じず、そしてこちらへは全く掛かってこないという状況であった。しかし、訊いてみると固定電話からは掛かりやすいようで、テレビのニュースで映し出された丸子橋の風景を見て「あいつは今どうしているのだろう?」と心配になったのでかけてみたらそのままかかったのだという。もう20キロ以上歩いていて、そろそろ自宅が近いというと電話の向こうは絶句していた。田舎は車生活ゆえ、普段から1キロも歩かない生活なのだが、こちらは日々の暮らしは基本は徒歩(というか足手纏いの自家用車は持たない方がある意味賢いと思う。勿論、車を運転するのが趣味であるという人の場合は前述を妨げることは出来ないが・・)。だから心配は要らない、と言う話をし、家に着いたら改めて連絡するから一旦電話を切ると告げて更に先を急ぐ。
足はさっきのブレークで半分くらい復活したので結構軽い感じだ。菊名の手前にサミットストアと菊名の郵便局があるが、どちらも煌々と灯りが点いていて人の気配もする。なんだか生きた心地がする。結局、川崎市は真っ暗闇の中を突っ切った格好となったが横浜市はだいたい大丈夫のようだ。綱島街道を直進して遂に菊名駅にぶつかった。駅の下のバス停とタクシープールには人が溢れかえっていて大変な混雑だ。バスを待っている先頭の人に、電車はどうなんですか? と訊いたら、まだ1~2時間は無理だろうな、との返答。階段の上の東急菊名駅ではメガホンで復旧の目処はまだ立たない、とのアナウンスが繰り返されている。
菊名駅前からは旧綱島街道へと入る。新しい綱島街道は急勾配とカーブが続く山道であり、そして自宅へは遠回りをしている格好だからだ。「旧綱」は平地をずっと進み、東横線の踏切を越えて更に平坦に白楽・六角橋方面へと通じる谷底の細い道ながら妙蓮寺駅前を掠めて自宅へ行くには最短距離だ。旧綱に入ると東京から神奈川へ向かう人はぐっと減り、気がつくと自分一人となっている。反対方向からは横浜から港北区、またその向こうの都内を目指す人々が黙々と歩いていて狭い道が溢れかえっている。そうこうするうちに菊名橋交差点に到着。ここでも帰宅難民がいっぱい歩いていて、この交差点を左右に走る水道道も帰宅難民の通り道だったらしい。

by primex64
| 2011-03-16 23:21
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