2011年 03月 13日
地震 そして帰宅難民 - Part 1 |
年に数回という全国規模の重要会議を開催中、あの地震が起きた。関東大震災の教訓を生かして設計された元々揺れには強い堅固な低層ビルが職場なのだが、この地震では相当に揺れた。一回目も二回目も周期が長くて船のような揺れ方だった。会場はテレビ会議室だったのと、たまたま社長・副社長も列席していたため開催中の会議を即座に中断し、本社と地方拠点間を結んで情報交換/善後策対応を開始した。最初、仙台はなかなか繋がらなかったが、それは全員屋外へ避難していたためだった。仙台のセンター長はこの会議のため上京しているので代行者が素早い措置を発動し全員無事であることが判明。但し、オフィススペース内の混乱、散乱は凄まじいものがあり、復旧には相応の時間がかかりそうだ。社長と副社長は仙台の拠点が無事であることを確認後、霞が関の本社へ戻り災害対策本部が設置された。
窓からは東京湾方面が望めるのであるが、真っ黒い煙が立ち上り始め、ヘリが複数機周りを飛行しているのも見える。そうこうするうち屋外では港区の緊急有線放送で津波警戒のため高台へ避難する旨を叫んでいる。騒然とした中で更に続く余震・・・。遂にこの建物にも避難命令が出て全員(千名程度)、寒風の戸外へと避難した。この会議には、前述の通り仙台の拠点からも幹部連中が参加していたが、家族との連絡が取れず、東北新幹線も飛行機もダメで途方に暮れた様子だった。
第2波が過ぎ去ってからすぐに携帯電話で自宅へ掛けたら娘が出た。家の中では積み上げたCDが崩れた程度で他の被害は全くないという。揺れ自体は強かったのであるが周期が長いせいか不思議と食器や棚の物は落下しなかったという。因みにThiel CS7.2は大型トールボーイ型スピーカーであり重心が高いため転倒が懸念された。この重量物が倒れると人・物へ激しく損傷を与えるので心配していたのだ。が、こちらも微動だにしていなかったとのことで一安心。
結局、この夜は会社(港区三田、最寄りは麻布十番)から横浜・妙蓮寺の自宅まで徒歩で帰宅した。以前からこういったケースを想定して都内から自宅までの歩行訓練を定期的に実施していたので不安はなかった。勿論、会社に泊まる選択肢もあったが、こういった中で子供を一人だけ自宅に残すのも憚られたので徒歩帰宅を敢行することにしたのだ。
会社の食堂で栄養補給をし、売店で水のペットボトルを買ってから出発したのが17:45頃だった。風が強くてかなり寒い。オーストラリア大使館前から日向坂を降り、二の橋を渡って都道415号へ入ると既に六本木方面からの帰宅者が数珠繋ぎに歩いていてその流れに合流する。とにかく人が多くて歩きづらい。上り線と下り線を交互に変えながら人の少ない側を行く。都道は白金高輪で桜田通りに合流するが、その辺りから更に人が増え、歩道は溢れかえり車道を歩く人もいる。車道は大渋滞であり、辛うじて動いている超満員の路線バスはほぼ歩行者の速度と同じくらいで運行していて、いつ見ても真横に見慣れた行き先のバスがぴったりと寄り添っている感じだ。外気温は低くて寒いが歩いていると体温が上がり、それ程寒さは感じない様になってきた。
明治学院大学の坂を降りて五反田駅に出ると閑散とした山手線ホームが目に入る。蛍光灯だけが煌々と虚しく点灯している。駅係員が首都圏の鉄道は全線不通、復旧の見込みは立っていないと叫び続けている。目黒川を渡って山手通りに出ると、こちらの環状道路も双方向で夥しい歩行者がゾロゾロと歩いており、帰宅難民の多さを痛感する。五反田TOCビル前に到着したのが18:40くらいだった。小休憩をとってから中原街道を南下する。五反田からは第二京浜と中原街道に分岐するが、ここで合流した人もいて歩道を歩く人の数は殆ど減らない。荏原の昭和大学病院へはひっきりなしに救急車が到着し、そのたびに車道に警官が出て一般車を路肩方向へ寄せるように誘導していた。これが更に渋滞に拍車を掛けている。香蘭女学校の坂を上り旗の台を通りかかると駅前商店街のドトールや中華屋、ファーストフード店には行列が出来るほど人が溢れている。安売りの酒店の店頭では割れた日本酒の瓶やワインの瓶をポリバケツに集積し、店舗の床掃除をしていたが、なかなかはかどっていない様子だ。道すがら頻繁に見掛けるコンビニにも人が溢れており食べ物を買って栄養補給したり、皆、家族へ無事を知らせているのであろうか公衆電話に列が出来ている。環七の交差点には警官が沢山出ていて交通規制をしている。環七の外回り方面へは右折禁止としているようである。
アルプス電気の坂を登り切って雪谷大塚の駅に近付いたら池上線の電車がゆっくりと走行していた。もうすぐ動くかも知れないと思い、駅員に訊いたところ、試運転を始めたばかりであって再開までの目処は全く立っていないとのこと、諦めて家路を急ぐ。環八交差点で田園調布警察署へ入りトイレ休憩。警察署内はごった返しており、トイレにも10分ほど並んでようやく用を足した。
(続く)
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窓からは東京湾方面が望めるのであるが、真っ黒い煙が立ち上り始め、ヘリが複数機周りを飛行しているのも見える。そうこうするうち屋外では港区の緊急有線放送で津波警戒のため高台へ避難する旨を叫んでいる。騒然とした中で更に続く余震・・・。遂にこの建物にも避難命令が出て全員(千名程度)、寒風の戸外へと避難した。この会議には、前述の通り仙台の拠点からも幹部連中が参加していたが、家族との連絡が取れず、東北新幹線も飛行機もダメで途方に暮れた様子だった。
第2波が過ぎ去ってからすぐに携帯電話で自宅へ掛けたら娘が出た。家の中では積み上げたCDが崩れた程度で他の被害は全くないという。揺れ自体は強かったのであるが周期が長いせいか不思議と食器や棚の物は落下しなかったという。因みにThiel CS7.2は大型トールボーイ型スピーカーであり重心が高いため転倒が懸念された。この重量物が倒れると人・物へ激しく損傷を与えるので心配していたのだ。が、こちらも微動だにしていなかったとのことで一安心。
結局、この夜は会社(港区三田、最寄りは麻布十番)から横浜・妙蓮寺の自宅まで徒歩で帰宅した。以前からこういったケースを想定して都内から自宅までの歩行訓練を定期的に実施していたので不安はなかった。勿論、会社に泊まる選択肢もあったが、こういった中で子供を一人だけ自宅に残すのも憚られたので徒歩帰宅を敢行することにしたのだ。
会社の食堂で栄養補給をし、売店で水のペットボトルを買ってから出発したのが17:45頃だった。風が強くてかなり寒い。オーストラリア大使館前から日向坂を降り、二の橋を渡って都道415号へ入ると既に六本木方面からの帰宅者が数珠繋ぎに歩いていてその流れに合流する。とにかく人が多くて歩きづらい。上り線と下り線を交互に変えながら人の少ない側を行く。都道は白金高輪で桜田通りに合流するが、その辺りから更に人が増え、歩道は溢れかえり車道を歩く人もいる。車道は大渋滞であり、辛うじて動いている超満員の路線バスはほぼ歩行者の速度と同じくらいで運行していて、いつ見ても真横に見慣れた行き先のバスがぴったりと寄り添っている感じだ。外気温は低くて寒いが歩いていると体温が上がり、それ程寒さは感じない様になってきた。
明治学院大学の坂を降りて五反田駅に出ると閑散とした山手線ホームが目に入る。蛍光灯だけが煌々と虚しく点灯している。駅係員が首都圏の鉄道は全線不通、復旧の見込みは立っていないと叫び続けている。目黒川を渡って山手通りに出ると、こちらの環状道路も双方向で夥しい歩行者がゾロゾロと歩いており、帰宅難民の多さを痛感する。五反田TOCビル前に到着したのが18:40くらいだった。小休憩をとってから中原街道を南下する。五反田からは第二京浜と中原街道に分岐するが、ここで合流した人もいて歩道を歩く人の数は殆ど減らない。荏原の昭和大学病院へはひっきりなしに救急車が到着し、そのたびに車道に警官が出て一般車を路肩方向へ寄せるように誘導していた。これが更に渋滞に拍車を掛けている。香蘭女学校の坂を上り旗の台を通りかかると駅前商店街のドトールや中華屋、ファーストフード店には行列が出来るほど人が溢れている。安売りの酒店の店頭では割れた日本酒の瓶やワインの瓶をポリバケツに集積し、店舗の床掃除をしていたが、なかなかはかどっていない様子だ。道すがら頻繁に見掛けるコンビニにも人が溢れており食べ物を買って栄養補給したり、皆、家族へ無事を知らせているのであろうか公衆電話に列が出来ている。環七の交差点には警官が沢山出ていて交通規制をしている。環七の外回り方面へは右折禁止としているようである。
アルプス電気の坂を登り切って雪谷大塚の駅に近付いたら池上線の電車がゆっくりと走行していた。もうすぐ動くかも知れないと思い、駅員に訊いたところ、試運転を始めたばかりであって再開までの目処は全く立っていないとのこと、諦めて家路を急ぐ。環八交差点で田園調布警察署へ入りトイレ休憩。警察署内はごった返しており、トイレにも10分ほど並んでようやく用を足した。
(続く)

by primex64
| 2011-03-13 20:31
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