Live at Suntory Hall@Jean-Frédéric Neuburger |
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CD1
・J.S.バッハ:イギリス組曲第2番イ短調 BWV.807
・ショパン:バラード第2番 Op.38
・ショパン:ノクターン ヘ長調 Op.15-1
・ラヴェル:ラ・ヴァルス
CD2
・リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
・ラヴェル:古風なメヌエット
・ストラヴィンスキー:練習曲ヘ長調 Op.7-4
・ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ:バガテル
・J.S.バッハ/フェインベルク:オルガンのためのソナタ第5番より『ラルゴ』
ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ(ピアノ)
録音:2007年11月17日 東京、サントリーホール(ライヴ、デジタル)
ヌーブルジェがサントリーでリサイタルをやったのは新聞広告で見ていて知っていた。どういうピアノを弾く人物かは知らなかったが、たまたま名前が記憶に残っていて、たまたまラ・ロック・ダンテロンのダイジェストで聴いたショパンの2曲がとても秀逸で気になる存在になった。店頭でこれを見つけて内容を確認するとやはりその2曲が入っていて他にも盛りだくさん。
(1枚目)
きらきらと光る星が流麗にちりばめられた演奏を想像しつつ針を降ろした瞬間、呆気にとられた。冒頭はバッハのイギリス組曲なのだが、これはまさしくバッハだったのだ。分析的に聴いて長所短所を探そうとするいつもの意欲が一瞬にして殺がれてしまい、一気にイギリス組曲の中へ、いやバッハの世界へ引きずり込まれた。
バッハの時代のクラヴィーアは現代ピアノとは構造が異なり強弱が出ない楽器(つまりチェンバロ)であり、従ってその時代の曲はそれ相応にスケール展開と和声の組み合わせだけで情感を表出するように仕組まれているのだ。ここ暫くピアノによるバッハ作品をいくつか取り上げたのだがどれもが成功していないのはここを巧く汲み取っていないからだと悟らされるヌーブルジェの解釈と演奏なのだ。絶頂期のリヒターやレオンハルトの弾く求道的なチェンバロが鮮やかに脳裏に蘇る。そう、この抑揚を極限まで押し殺した、それでいて時間軸にも殆どの揺らぎを挿入しないウルトラ・ジッター・フリーのサウンドこそバッハなのである。ある意味、ピアノという楽器の強点を捨て、即ち飛車角抜きで音楽に立ち向かう様なものである。この不利益を補って余りある精密なスケールと超絶的な技巧を支える高速な運指こそがこの人の武器だ。
ストイックで正統的なバッハを一気に聴かされたあとは例のショパン。バラード2番はABA'B'aという構造、ノクターンOp.15#1はABAという構造であり、Aの部分が穏やかで美しい簡素な旋律の第一主題、Bの部分が激烈で沈鬱な第二主題であるのはこの二曲の共通点だ。バッハとはうってかわってピアノの持つ広大なダイナミックレンジを活かした秀逸なショパンだ(これはラ・ロック・ダンテロンで感じたのと同じ)。静から動、またその逆の鮮やかな切り替えは恐ろしく速いし、クレッシェンドから一気にデクレッシェンドへ転じて瞬間的なパウゼを挟みつつ次のクレッシェンドへと繋がっていくあたりのアーティキュレーションは聴いていて爽快だ。ノクターンが終わった瞬間に拍手を始めようとした聴衆の一人が一回だけ「柏手」を打ってやめ、その後20秒ほどの沈黙が続いてどっと拍手が来る。ヌーブルジェはピアノの前でずっと固まっていたのだろうか・・。
一枚目はこれで終わらない。なんとラヴェルの傑作にして超難曲に数えられるラ・ヴァルスを持ってきている。ラヴェルの曲は譜面を正確にトレースしただけでは音楽にはならない事は周知の通りだが、この曲は元々フルオケ向けに書かれた曲をラヴェル自身がピアノ独奏用に書き直したものであり、そのスケールと超広ダイナミックレンジにかけては他の追随を許さない大規模かつ困難な曲だ。この難曲をどう弾くのかは興味の一つだったのだが、これはもう筆舌に尽くしがたい超絶技巧であって尚かつ自由で幅の広いアゴーギクの嵐、そして間欠的に随所に挿入される魔術的なパウゼ・・。全く縁のない音楽なのだがオスカー・ピーターソンが弾いたインプロヴィゼーションの数々の名演を走馬燈のように連想してしまった。
先のショパンと違い、コーダが終わるやいなや嵐のような拍手、さっき柏手を打った客かどうかは分からないがLB席あたりからブラヴォー! と盛んに叫んでいるおやじの声が明晰に捉えられている。
※注: この編曲はヌーブルジェ自身によるオリジナル版であることが判明
(2枚目)
ピアノを習って練習・勉強を繰り返していてもなかなか上達しないのが速い部分のパッセージの運指で、十分に練習してもどこかでつっかかってしまう事が多い。それでも練習を繰り返して指が覚えてくればスラスラと弾けるようにはなる。しかし、もっと難しいのは弱音部、しかも緩徐な部分のタッチ・コントロールである。実はピアノの音で出すのが一番難しいのが弱音だ。何度弾いても毎回強さが違ったり音符と音符の繋がり方が同じにならないのだ。普段は伴奏部を弾くことが多い左手の弱音コントロールは至難を極める。
2枚目の冒頭は、なんとリストのソナタ。恐らく、ピアノ独奏曲としては最難度の作品のうちの一つである。要求される技巧もそうなのだが、この暗鬱な第一主題を最後までどう展開しつつ繋ぐのか、が、難しいだろう。この曲は字面通りに弾いてもただただ漫然としていて飽きるだけ、いや拷問に等しい。左手の弱音コントロールが如何に重要であるかをヌーブルジェのこの演奏がはっきりと教えてくれる。確かな技巧は豊かな感情表現をも同時に獲得していると言うことか。今まで聞こえなかったような細やかな緩徐部が印象的、いや鮮烈だ。若い才能とは素晴らしい物で無限の可能性を予感する。レスチェンコ のリストも凄かったがこのヌーブルジェも凄いのだ。
このあとも曲は続くが、インプレはこれくらいにしておく。この人がこのまま順当にキャリアを積んだとすれば近い将来必ず巨匠と呼ばれるピアニストになるはずだ。いや、ならないはずがない、と強く言えるほど昨今の若手の中では図抜けている。
彼は来週の17、19と大植英次+大阪フィルの定演(それぞれサントリーホール、大阪のフィルハーモニーホール)に出るため、今頃は日本に滞在しているかも知れない。また6月も来日してN響との共演が決まっているそうでなんだか引っ張りだこだ。潰されないことを祈る。
(録音評)
MIRARE、MIR060、通常CDの二枚組。クレジットにはオクタヴィア・レコード(つまりEXTON)のディレクターの名もアドバイザリーとして載っている。恐らくMIRAREとしてはサントリーで録音するのは初めてだったのであろうからオクタヴィアからマイクアレンジなどの助言を得たのかもしれない。しかし音から言うとMIRAREのものである。
音質はこれがとても国内、しかもサントリーとは思われない無駄のないかっちりしたものだ。2007年11月というとサントリーは改修工事が終わっていて音が改善された後だが、それにしても従前の甘ったるさ、僅かなカビ臭さが消え、まるで違う音になったのには驚く。
ステージの床や奏者、聴衆のノイズは盛大に入っている。日本人は咳払いやくしゃみが多い、というのは気のせいだろうか。
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